●『現実批判の人類学――新世代のエスノグラフィへ』(春日直樹・編)を読み始めた。
●第一部より、アルフレッド・ジェルのアート・ネクサスについて(久保明教)。
≪ジェルの議論は、行為主体性(エージェンシー)についての関係論的な理解に基づいている。つまり、ある存在者は、その行為を受け取る受動的な存在者(「ペーシェント」)との関係を通じて行為主体(「エージェント」)となる。例えば、真夜中に突然故障した自動車は、それによって受動的な立場に置かれる運転手(ペーシェント)との関係においてエージェントたりうる。反対に、思うままに車を操るときには我々がエージェントであり、その限りにおいて自動車はペーシェントである。関係論的なエージェンシー概念に基づく限り、「エージェントとは意図や心や意識をもつもの=人間である」という通常の固定的な定義は否定され、人間だけでなく様々な非・人間が他者との関係を通じてエージェンシーを発揮することになる。さらに、この考え方においては「働きかけられる」という(ペーシェントの)受動性を通じて「働きかける」という(エージェントの)能動性が生み出される。このため、神々や霊といった必ずしもその存在が明確でない実体も、それに「働きかけられている」と自らを捉える人々に対してエージェンシーを発揮しうる。≫
≪エージェントとペーシェントの関係は二者間を超えて入れ子状に拡張する。つまりA(エージェント)がB(ペーシェント)に対して働きかけ、さらにB(エージェント)がC(ペーシェント)に働きかけるとき、Bを通じてAがCに働きかけるという事態が生じうる。ジェルによれば、このときBはCに対してAの「エージェンシーのアブダクションを促す指標(インデックス)」として働く。≫
≪ジェルの言う指標とは推論を喚起する物理的な存在であり、この物質=記号を媒介にして人間と非・人間の間でエージェンシーが連鎖する。こうした場を彼は「アート・ネクサス」と呼び、(1)指標、(2)アーティスト、(3)レシピアント、(4)プロトタイプの四項が織りなす関係の図式によってそれを描き出す。≫
●エージェント(能動者)は、あくまでペーシェント(受動者)との関係において能動的でありえる(エージェントとなる)。エージェント−運転手→ペーシェント−自動車という関係は、自動車の故障によって、エージェント−自動車→ペーシェント−運転手へと逆転する。この時、エージェント−ペーシェントという連鎖関係は、人間/非・人間、あるいは存在/非・存在の区別なく繋がり得る。そして、エージェントAから影響を受けたペーシェントBが、その影響を受けることによって、さらにCに影響を与えたとすると、その時、Bは指標(インデックス)となり、エージェントAが、Bというインデックスを通じて、ペーシェントCに影響を与えるという風に言える。
ここで、アーティスト、レシピアント、プロトタイプは、あくまでインデックス(指標)によって促されたアブダクション(推論)によって関係づけられている。例えばアーティストは、指標を制作した人という意味ではなく、指標が誘発するアブダクションによって、その指標についての「責任」を帰させられる者という意味になる(自動車の故障を指標とすれば、設計者、整備工、メンテナンスを怠った運転手、悪意の第三者など、アーティストたる可能性をもつものは複数存在し、そのネットワークこそが世界を構成している、付け加えれば、ラトゥールにとって、世界はこのような連鎖関係のネットワークであって、なめらかな平面ではない――つまり穴−断絶だらけである――ということになる)。
レシピアントとは(アブダクションを通じて)指標の影響を受ける者、つまり指標がエージェンシーを発揮する対象で、プロトタイプは、指標によって(アブダクションを通じて)表象されるもののこと。プロトタイプが「製品の欠陥」だということになれば、アーティストは設計者ということになる。逆からいって、アーティストが運転手ということならば、プロトタイプは「彼の怠惰」となろう(エージェントが――過去の――運転手であり、ペーシェントも運転手――現在の――となる)。
あるいは指標の位置をずらすこともできるだろう。自動車の故障によって運転手が苛立ち、たまたま乗っていた彼の飼い犬がそれを見て自動車に向かって吠えたとする。この時、エージェントである自動車が、指標である「運転手の態度」を介して、ペーシェントである犬を吠えさせたと言うこともできる。人の苛立ちという媒介が、自動車と犬との間に連鎖関係をつなげる。ここでも、犬による「吠える」という反応(ペーシェントの成立)が、自動車をエージェントとして生成させる。飼い主の態度に犬が反応しなければ、運転手の苛立ちは指標たりえず、犬と自動車の関係は生まれない。ここで、「運転手の態度」という指標(インデックス)のアーティストは自動車であり、プロトタイプは犬によって推論された「自動車の持つ悪意」だと言ってよいだろう。この時、自動車の悪意が客観的なものとして存在するかどうかは問題にならないが、自動車と犬との関係は現実として存在する。
ここでは、アーティストとプロトタイプがエージェントとなるもので、レシピアントがペーシェントとなるものであるが、そのは関係あくまでインデックス(指標)によって促されるアブダクションによって繋がっているので(原因→結果ではなく、原因←「指標⇒推論」→結果という形なって、時間が逆流する)、流動的(逆転可能)であり、かつ、多層的(一つの指標が複数の推論を含み、複数のエージェント−ペーシェント関係を繋ぐことができる)であることになるだろう。
●序章より、マリリン・ストラザーンについて(春日直樹)。
≪それは従来の比較法では予想もできないものを比較によってつなげるときに、成し遂げられる。比較が現実をつくり、つくられた現実が比較されてさらなる現実をつくっていく。この過程は「部分的連接」のセリーと表現できる。部分的連接は、従来の人類学の比較法に対する批判を内包している。比較法が暗黙裡に前提とするのは、部分が一つの全体を構成しシステムの一部をなすという認識である。制度の比較、社会の比較はこの部分−全体関係の認識にのっとりおこなわれてきた。ストラザーンはメラネシアの人格やモノや身体がこうした関係を構成することはなく、関係は文脈から文脈へ、領域から領域へとアナロジカルな増幅や切断や転倒をもって展開してゆくことをみいだす。部分−全体の一体が個別に並んで関係づけを待つのではなく、全体がみえない部分が別の同類の部分と関係を形成し合い、その関係によって全体の在り方をあたらしくイメージさせていくのである。≫
≪(…)ラトゥールとストラザーンは、どんなにちっぽけな定点も認めない。二人にとっては人もモノも互いに関係を変化させて存在しているので、外部のどこかに定点をみいだして立場を固めたり比較の基準に据えることは不可能である。外部に定点がない限り、存在が主観的か客観的かを論じても無意味である。各存在は均等に視点を与えられているが、他の存在との関係において主体や客体、人格や非人格、自然や人工物へと転換を遂げる。≫
≪ストラザーンにあって定点なき視点は、人やモノや複合体がそれ自体を比較の基準としながら別なそれらへとあたらしくつながる「部分的連接」を導く。部分的連接は彼女の議論の方法であり内容でもある。人類学者の視点はあくまで不確かなままだから、みずからを尺度として外部の人々やモノや複合体との間に完結しえない連接を作るしかない。幸か不幸か、尺度はみずからの内容と齟齬をきたすのが常で、つまりは差異を内側から生産してしまうのだが、このみずからに関する差異によって外側との差異との間に全体像も序列も不在なリンクを作ることができる。それは分析者の基準および差異が対象に内在する基準および差異との間で起こす「水平的反響」として表現できよう。人類学者がみずからの尺度と齟齬をつうじて構築する人工物=分析は、メラネシア人による同様の構築物に併置される関係において存在すべきなのである。≫