●コッポラの『ヴァージニア』をDVDで。最初の方はすごく良くて、コッポラのなかでは一番好きかも、くらいの勢いで前のめりに観ていたのだけど、途中から、えっ、そっちの方にいっちゃうのか、と思う場面が増え始めて、観終わってみると、うーん、という感じになってしまったのだった。主人公の作家が保安官に大量の睡眠薬を買ってこさせて眠りにつくぐらいまでは文句なしに面白かったのだけど。
で、この感想は、『テトロ』を観た時のものとほとんど一緒であることに気付いた。コッポラは基本的にアート系の人だと思う。ドラマや物語をがっつりやるというよりも、描写の面白さやイメージの出し方の面白さみたいなことで映画をつくっていると思うのだけど、どこかで中途半端にドラマ的なもっともらしさに気を使ってしまう感じがあって、でもそれがやっぱり中途半端で、それが作品を弱くしてしまうところがあるように感じる。『テトロ』でも、兄夫婦と弟の関係の微妙な感じや、アパートの部屋やアルゼンチンの街の描写、ヴィンセント・ギャロの存在感とかだけで十分いける(というか、それこそが魅力的な)映画だと思うのだけど、ギャロの過去のネタばらしとか、凡庸な父と息子の関係の主題とかが出てくると、いや、そういうのいらないんじゃないかなあ、とか、やるならやるで、もっとがっつり、しっかりとやってほしい、と思ってしまったのだった。あんだけ面白かったのに、そんな凡庸な方向にわざわざもっていかなくても、と感じてしまう。
『胡蝶の夢』では、そのあたりのバランスが絶妙に上手くいっていたと思うのだけど。
『ヴァージニア』について、いろいろな場面を改めて思い出してみると、個々の場面の演出やイメージはとても魅力的で面白いように思う。では、何がイマイチちなのかと考えると、おそらくそれは全体の構成というか、話のもっていき方なのだと思う。エル・ファニングのヴァンパイアのイメージや(遺体置き場の見えない死体も含めた)見せ方はとても魅力的なのに、ポーのイメージが凡庸であまり面白くない。にもかかわらず、途中から、主人公の作家を導く役割が、エル・ファニングからポーに変わってしまうところで、まず最初にがっかりする。ポーの創作談義とか、この映画に必要なのだろうか、いや、必要なのだったら、もうちょっと見せ方に何かあってもいいのじゃないかと感じてしまった。
それから、この映画は、複雑な多層構造になっていて、作家の現在の困窮、現在進行している事件、過去にあった事件、作家のトラウマ、それら全ての彼岸にあるような「湖の向こう側」、そして作家を導く過去の大作家(ポー)等の層が、夢を媒介に絡み合うのだけど、その錯綜のさせ方が中途半端だと思った。それらの層のうち、どれか一つか二つを主線にして他はそれとの関係で(厚みをつくる背景として)見せるのか、あくまで複雑に錯綜する構造の複雑さそのものを見せるのか、そのどちらなのかよく分からなくて中途半端に感じられる。何というのか、個々の場面の演出としては、シンプルに見せる映画のように演出しているのに、全体の構成としては、錯綜する複雑さを見せるかのようになっている。そして、アイデアというか、もともとのネタとしては、やはりシンプルに見せるような話であると思う。
さらに、作家のトラウマ(というか、娘の死の真相)が、作品を引っ張る謎のようにほのめかされているのだけど、最後の方でそのトラウマが明かされてみると、「謎」というには足りず、えっ、そんなことで今まで引っ張ってたの、と、がっかりしてしまう。もっと突飛なトラウマを設定しろということではなく、別にそれをことさら謎とはしないで、現在の事件と過去の事件という二つの線を主線として、それに作家の娘の死が遠く共鳴する、くらいの感じでいいのではないかと思った。さらに、ポーの存在も、あくまで遠くからの声のようなものとして、作家を事件に導くの主な役割はエル・ファニングである、というくらいのシンプルなつくりにしたら、とても魅力的な映画になったのではないかと思ってしまった。そうしたら、保安官のキャラとかももっと生かせたように思う(保安官のキャラに胡散臭さが足りないように思う)。
●そうとは言っても、作家が最初にエル・ファニングと深夜の森のなかで出会って、そこから作家がホテルに入って行き、ホテルから逃げ出し、エル・ファニングと二人で行方不明の子供たちを見るという、一連の場面は本当に素晴らしいと思った(おーっと思って前のめりになった)。そこだけで、すごい映画だと言ってもいいかもしれない。最後の、遺体置き場での吸血鬼復活の場面もよかった。図書館でホテルの資料を調べる場面もよかった。いや、良い場面は他にもたくさんあるのだけど、それらを作品全体のなかで有効に生かせていない感じが、どうしてもしてしまう。