●今更という感じだけど『アザーズ』(アレハンドロ・アメナーバル)を観た。ラストはやはり面白いと思った。ネタバレになるけど、世界の内蔵と外皮とがひっくり返って入れ替わるという感じが見事に出ていたと思う。たんに、こちらからの視点とあちらからの視点が逆転するというのではなく、すべてが一気にめくり返される感じ。これはとても抽象的な感覚だと思う(というか、この「感覚」を体感するためには抽象的な認識が必要だと思う)。そしてそれは、驚かされるのと同時に、納得させられるという感じでもある。『シックス・センス』のオチともちょっと似ているけど、『アザーズ』では世界そのものがまるごとひっくり返る。まったく同じ空間が、裏と表の違いという薄皮一枚で隔てられて、共有されている。
例えば、透明な素材で出来たボールの表面に地球儀のような図像を描くとする。そのボールの裏表をめくり返してひっくり返すと、裏側から見られた反転した地球が出現する(右手の手袋をひっくり返すと左手の手袋になるように)。その時、ボールの外にあった空間がボールの内側へと押し込められてひっくり返り、ボールの内側であった空間が、外の空間へと押し出されてひっくり返る、とする。ここで、透明な球を鏡面にして、空間全体が裏返されてひっくり返ることになる。ひっくり返るのは宇宙であって地球だけではない(地球を鏡面として宇宙がひっくり返る)。『アザーズ』の舞台となったお屋敷は、この透明な球のような意味で、空間そのものをそっくりと鏡像反転させる鏡面だろう。そしてその鏡面に直接触れている人物として、一方の世界には娘(姉)がいて、もう一方の世界には息子がいる。二人は触れ合ってはいるが、鏡面の向こうとこちらとに分かれている。その鏡面(薄皮)を一瞬だけ裂け目をつくるのが霊媒師だ。
ひっくり返るということは、たんに視点の逆転ではないと書いたけど、しかし視点がなければ、ひっくり返るという感覚は生まれない。仮に、特定の視点にとらわれない全能の視線を想定するとすれば、裏表が互いに鏡面によって接しつつも断絶しながら、どちらも同時に存在している様が見えるだろう。そのようにして本来同時に存在しているものの、どちらか一方のみに囚われていた視点が、ふいに他方へと移動したときに、世界がひっくり返るという感覚が生じる。そのような視点の移動は、鏡面が破れたその時に生じるだろう。
一度でもこのような裏返りを経験した者は、裏の世界が、ここではないどこかにあるのではなく、(見ることも触れることも出来ないとしても)いま、ここ、に、表の世界と同時にあるということを常に意識することになるだろう。だからぼくにとって興味があるのは、『アザーズ』のこの物語が終わった後からはじまる物語だ。世界がひっくり返ることがオチになる物語ではなく、ひっくり返るところからはじまる物語に興味がある。常に裏があることを意識している表の世界と、常に表があることを意識している裏の世界とが、互いを意識し、鏡面によって接していながらも、分離しているような世界の物語。
(ぼくが前に書いた「「二つの入口」が与えられたとせよ」という小説は、少しはそのような物語だったと思う。)
●ツイッタ―での柄沢祐輔さんの発言に端を発した、中村さん(すいません、下の名前がわかりません)と清水高志さんのやりとりがとても興味深かったのでメモとしてここにまとめておく。「概念的思考」と「アルゴリズム的思考」の接ぎ木、そしてフォーマットの話。
(自分がツイッタ―をやってないこともあって、なんか、人の会話を盗聴した上に勝手に公表しちゃってるようなやましい感じがあるのだけど、ツイッタ―での発言は「公表されているもの」なので、別に問題ないですよね。)


RT @yuusukekarasawa: アルゴリズムを上手く用いれば、たとえば社会設計において鈴木健さんの語るような「なめらかな社会」が実現し、都市設計においては風景が荒廃しにくい都市が実現し、建築空間においては新たな身体性と空間性が実現されることになる。


(N)セールも、おそらくアルゴリズムには注目している。『小枝』のなかでは、「概念的思考」と「アルゴリズム的思考」という二つの思考法を対比させながら、それらの「接木」状態の思考法を目指している。論文でも書いたけど、いま、思い返すと「ふわ」っとしてるので、詰めていきたい……
(N)この場合の二つの思考法は、セールの方法論ー分析と結合ーから出てくるのでは……方法論=分析と結合、って当たり前なんだろうけど、セールの場合は、ここにライプニッツ読解が絡んでくる。『ライプニッツのシステム』で、ライプニッツの分類を語る辺りに……


(S) アルゴリズムの話は、デスコーラ論だとアナロジズムについて語ってるあたりが近いのかなと。


(N) アナロジズムですか……ちょっと読んでみます。『小枝』で、アルゴリズム的思考と「大きな物語」が並べられていたのですが、その辺りも、このまえ送っていただいた辺りからだと、入りやすいのかな……と。


(S) 『小枝』の話は昨日も柄沢くんと電話でしていたんだよね。


(N) 私もしていました……笑 ところで、セールがいう「大きな物語」は、リオタールの「大きな物語」からなんでしょうか??


(S)意識しつつ、あえて逆に換骨奪胎してるね。フォーマットの議論は、たとえばホイヘンス時計が「客観的時間」を生み出し、それが「唯一」で恒常的な自然の像として逆投影されるという話とも繋がっている。
(S)人間の主観を相対化する恒常的な媒体、としての「人工自然」としての「客観的時間」もそうだけど、貨幣とか、ルネサンス期に発明されたさまざまなバランスシートとかもそうした役割を果たしている。これを彼はフォーマットと呼んでいる。


(N)『小枝』での、フォーマット化の話は、抽象化と絡めて語られていた気がします。「抽象化→法則→数」という具合に……『ライプニッツのシステム』の頃から語られている純化=濾過のモデルだったかと。『作家……』はじっくり読んでおきたいです。
(N)『小枝』での、フォーマットから溢れ出したものとしての(本当の)特異性、ということが、「人間の主観を相対化する」ということなんでしょうか……フォーマットと呼ばれる「人工自然」、「客観的時間」は、準=客体(的なもの)、ってことになるんでしょうか……


(S) 準-客体までいかないんじゃないか。それ自体はショートサーキット化する傾向をつねに持っているというか。。しかしそれがないと特異性もでてこないという関係だと思うね。


(N) やっぱり、準=客体とまではいかないんですね。確かに、フォーマットがないと、特異性は担保されない、出てこないのかと……『生成』に出てくる三人の画家を樹に例えているのに似ているのかな、と思っています。


(S)そうですね。フォーマットはジレット、特異性がノワーズのほうですね。


(N)『生成』で、樹形図が逆転する、という話があったと思いますが、『小枝』を読むと、逆転するとまずいのかな……という気がします……モデルとしては、逆転しても問題はないのかもしれないですが……『生成』も読み込んでおかないとです。


(S)いや、逆転するし往還するんですよ。ヴァーチャル、アクチャル論とも同じだし、レヴィもよく読むとフォーマット化に近いことを言ってますよ。


(N)『小枝』だと、フォーマットから溢れ出したものが「小枝=(本当の?)特異性」となっていたと思いますが、これを樹形図のモデルに当てはめると、吸枝と小枝=(本当の)特異性、ということで良いのでしょうか?
(N)フォーマットを経由した特異性と経由していない特異性、これは区別されていると思うのですが、これも逆転・往還するのでしょうか?それとも、樹形モデルは経由した特異性同士で考えられているのでしょうか?(こちらでの逆転・往還なら分かりやすいのですが……)


(S)「組成が変わってもそれ自体の機能は変化しない、ある媒体の中に預けられた情報」(邦訳27頁)。最終的にはこういうものまでフォーマットと呼んでいるのだから、「組成」によってそこから特異性が出てくると考えていいはず。


(N)濾過モデルで考えていました。なので、それを垂直的に捉えていましたが、『ライプニッツのシステム』でも、濾過モデルは重なり合っているもの、並存的なものとして考えている。とすると、組み合わせによる特異性として、小枝を考えたほうが良いのでしょうね。


(S)「思考のアルファベット」ですね。しかしアトム的なものとも違う。暫定的でプラグマティックなもの。パースの一次性に近いかも知れないね。