●説明することの、胡散臭さの面白さ。説明する、というのはつまりアナロジーのことで、あることがらによって表現されるものを別のことがらによって表現されるものに置き換える、変換するということだろう。たとえば、数学的な概念を数式によって表現するというのは「数学をしている」のであって説明しているのではない。
この時、要素だけではなく背景も異なるものへと移植されて変換される。Xという文脈のなかでA:B:Cという関係で表現されるものを、Yという文脈上のD:E:Fという関係によって表現されるものに置き換える。すると、A:B:CがD:E:Fによって説明されるのと同時に、D:E:FがA:B:Cによって説明されるとも言える。このような変換が可能だということ自体が、つまり、説明によって何かが理解できる(理解できたと思うことができる)ということそれ自体が驚くべきことではないだろうか。
確かに説明(アナロジー)は正確なもの(正当な変換)ではないかもしれない。しかし、もしそれが厳密に正確であるのなら、双方は方程式とその解のような不変の関係になってしまう。そこに「新たなもの」が入り込む余地はない。説明は常に厳密に正確ではないが、正確ではないことによって未知な何かを孕む可能性がある。正確に理解し、正確に変換する(正確な解を導く)ことと、上手い説明をひねり出すこと(別の背景へと強引に移植すること)との間にある違い。説明し、それを(誤差を孕んで、別の配置によって)理解することの間にある断絶、あるいは飛躍。説明のもつ、地に足のつていない「胡散臭さ」の危険と面白さ。説明には説明であることの限界がつきまとうが、その限界のなかには、説明であることの可能性も含まれるのではないか。
する(できる)ことと、理解する(説明する)こととの間にある乖離。しかし、(正確ではないかもしれない)理解することが、別の「する(できる)」を導くかもしれないということ。それとも、世界はこのような思惑とはまったく関係なく、常に冷徹に正確に作動しているのであって、このように考えることはもはやロマンチックな夢想に属するものでしかないのだろうか。
ネットスラングで「だいたいあってる」は、むしろ「あっていない(正確ではない)」というニュアンスで使われる。ほとんどあってないけど妙なところで不思議とかすっている、という面白さ。あるいは、まったく正確ではない(的外れである)にもかかわらず、なぜか一周まわって結果として「だいたいあってる」という状態になってしまっている、という面白さが表現される。