●ベーコン展についての「組立」の対話をだらだら聞いていたら夜中になってしまった。
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ぼくに見えたベーコンは、永瀬さんの観方とも上田さんの観方ともずいぶん違うなあ、と、ほとんどずっと、いや、それは違うんじゃないか、と思いながら聞いていたのだけど。でも、そう思えるのも、一点、一点詳しく、この絵を自分はどう観ているのかが語られているからだろう。ある人にとってある絵が「どう見えているのか」は(それについてどう考えているか以前に)、言葉として聞いてみないと分からないものだなあと思うのだった。
ぼくにはまず、ベーコンは基本としてマティスからつづくごく普通のカラーフィールド系の絵に見える(それは、抽象表現主義でも、ピカソ、デ・クーニング、ポロックという系列とは別であるということだ)。その意味で、ベーコンはシュルレアリズムと無関係ではないにしても、かなり遠いように思う(シュルレアリズムは基本的にフィールド――基底面としての時空平面――というものを否定しようとしている傾向が強いと思うのだけど、ベーコンはフィールドあっての画家であるように思う)。
対話のなかでジャコメッティの名前が出てきたけど、ジャコメッティの方がずっと難物で難解で、それよりベーコンはずいぶんすっきりして分かり易いと思う。ただ、この二人に何かしらの対照性があることは確かだとは思う。
ベーコンが抽象表現主義的なカラーフィールドペインティングと違うのは、「色面」と「線」と「イメージ(人体)」という異質な三つの要素が混じり合わないままあって、それらが違う角度で、というか、違う時間軸で、ザクザクザクッと交錯しているように見えるところ。ぼくにはそれがすごく面白く感じられる。このような展開は公式の美術史的展開とはかなり違っていて、いわば斜めにズレている。そうであるから、現在でも新鮮に見える。
これは主に五十年代の作品の印象なのだけど、人体のイメージは映像的で、古いブラウン管テレビが壊れる寸前に一瞬像が歪む、その瞬間に映った人体のような感じ。あるいは心霊写真とか。肉というより、むしろアンフラマンスとしての人体のように感じられた。映像的であると同時に「眼」がとらえきれないようなもの。しかしそれが、フィールド(場)が絵画的であることによって、絵画の場に、一瞬で消えるはずの(場違いの)映像が捕えられてフィックスされてしまった、というような感じ(両側から拘束された捕えられた宇宙人、みたいな感じ)。雑な図式で言えば、一瞬で消えるはずの像(人体)と、ある程度安定したフィールド(色面)と、その中間くらいの速度(安定度)をもつ線という、異なる時間性が何故か共存(交錯)してしまった、ある(時間外の)一瞬という感じ(異質なものが共存−交錯するという意味で、リヒターよりもベーコンの方が圧倒的に面白いと、ぼくは思う)。
それは、ベーコンの絵の人体のイメージはフィールドに囲まれる(捕えられる、貫かれる)ことでようやく成立するもので、例えばもし、人体の部分だけを切り取ったとしたら、きわめて弱いものでしかないということでもあると思う(永瀬さんが「描けてない」とか「手癖が目立つ」というのはその通りだと思う、しかし、ベーコンの絵においてはそれでいいのだとも思う)。ベーコンの絵はまずフィールドがあり、それに依って(支えられて)人体が成り立つように見える。逆から言えば、それ自身で自律できない、未だ像に至らない像以前の弱い状態の人体を絵画として定着するためにフィールドがあるとも言える。それは、ジャコメッティの絵が、人体を「描く」ことによってフィールド(ジャコメッティの場合「距離」と言うべきか)を発生させようとしていることと、アプローチとして真逆であるように思う。
永瀬さんと上田さんとの対話のなかで納得できなかったことの一つは、穴(「穴」として縁どられた認識可能なもの)とブランク(感覚と感覚の間にあるもので対象化でぎず認識できないもの)とを混同しているように思われたところ。明らかに「穴」として描かれているところと、タッチのタッチの隙間、あるいはフレームとフレームとの隙間とは、根本的に意味が違うのではないか、と。隙間は穴として対象化できない(穴として対象化できるものは隙間ではない)。この違いはけっこう重要なのではないかと思う。
ベタといえばあまりにベタだけど、ベーコンを観ているとデヴィッド・リンチを思い出さずにはいられない。この場合、リンチが一方的に影響を受けているのだけど。だが、ベーコンを実際に観てみると、リンチにおけるベーコンの影響が決して表面的なものではなく、メディウムやジャンルを超えて、とても深いとこで共鳴が起こっているのを感じる。たとえば『マルホランド・ドライブ』でWinkiesの裏にいる不気味な男の存在の仕方は、ベーコンの人体のイメージの(気味の悪いとも言える)あり様ととても正確に響いているように思われる。
●あと、樫村さんのテキストを「ニーチェはほんとに病気だからえらい」、「ドゥルーズは病気じゃないからダメ」みたいに読むはどうなのかと思う。いや、確かにそう読まれても仕方ないような書き方はされていると思うのだけど。でもあれは、ニーチェのテキストの細部には一字一句動かせないような密度と精密機械のような必然性があるのだが、ドゥルーズのテキストにはそこまでの密度はない、ということが言われているのだと思う。さらに言えば、あのテキストのドゥルーズ批判のキモは「そこ」にあるのではなくて、ドゥルーズは、強度における差異と、象徴的な差異とを、(おそらく意図的に)混同してしまっている、ということが批判されている(ニーチェが強度の差異として記述しているものを象徴的な差異であるかのように読んでいると、と)のだと思う。そしてそれはラカンをあまりに素直に読んでしまっていることに由来するのだ、ということが言われている。ドゥルーズは、理論的なテキストをあたかも小説を読むように過度に鷹揚に受容してしまい(相容れないはずの理論を鷹揚に融合させてしまう)、それによってある理論が発生したそれ固有の実質のようなものを見失ってしまうことがある、と。だがそれは欠点でもあるが、美点(ドゥルーズ自身の固有性を表現するもの)でもある、と。