●小説を書いていた。昨日の日記に書いた「自分に向けた無茶ぶりの一行」に対する応答をなんとかひねり出し、最後まで辿り着いた。昨日は、無茶ぶりが間違っていたかもしれないと書いたけど、ここ数日停滞した末にひねり出したそれへの対応の部分で、自分からこんなものが出てくるとは思わなかったという文が出てきたので、無茶ぶりしたかいがあったと思った。流れからいくと唐突というか、浮いてしまっているかもしれないけど、その部分は自分ではとても好きだ。ここに引用したいと言う気持ちも強くあるけど、それは我慢しておく。
自分にとってはとても面白いのだけど、これを他人がどう読むかについてはまったくわからない。前の三つの小説よりさらに飛躍が多い展開なので、たんに混乱しているだけだと読まれるかもしれない。
●イメージを媒介しないで考えるにはどうすればいいのかということを最近ずっと考えている。イメージを用いて考える限り、人は、三次元的空間+時間という形式から逃れるのは困難で(なにしろカントが感性の先験的な形式だと言うくらいだから)、つまり、空間と時間の秩序から導かれる常識的な論理に強く拘束される。相対論以前の論理。
(「感性の先験的な形式」は、今日ではおそらく「認知限界」という言葉で置き換えられる。)
おそらく、これから逃れるもっとも簡単な方法は数学で、例えば、四次元の空間をイメージすることは困難だが、数学的には、ただ座標軸の数を一つ増してやるだけでいい。数式を使えばイメージ抜きで思考できる(量子論の「意味」はわからなくても、それを「使う」ことはできる、とか)。あるいは、コンピュータの計算能力は人間の認知限界を簡単に超える。とはいえ、ぼくは数学はできないし、今から必死でやってもどうせたいしたことにはならない(でも、少しは勉強するべきだとは思う)。
ではどうすればいいのか。イメージを用いてイメージを超えるやり方を探る。二十世初頭の前衛芸術はずっとこのことを問題にしてきた。おそらく精神分析もそうだと思う。それをたんなるイコノクラスムととるべきではない。「象徴」にひっかけられたイコノクラスムは、イメージの思考よりも粗く、単純なことになってしまう(しかし、人間の認知限界によって、象徴的な――縮減された、粗い――思考は強大な力をもつ)。そうではなく、それらはむしろ、エジプトよりもさらにエジプト的であることでエジプトを超えたいというような指向性としてあった気がする(フロイトラカンでさえも)。ここから学べることは多いはずだが、しかしそれらはやはりちょっと古い。
●もう一つの大きな問題。そのような思考を「人間」は必要としているのか、という疑問。人間が生きるのに必要なのは「象徴」と「物語」と「キャラ」であり、そもそも前衛芸術は間違っていたのかもしれない、と。
印象派より後の絵画を多くの人が受け入れず、完成から百年ちかく経っても高校の物理の教科書に相対論が載らない(キャラとしてのアインシュタインは受け入れるのに)のは、人のコモンセンスがそれを受け付けない(必要としない)からではないか、とか。
●でも、例えば『シュタインズゲート』のような作品がひろく受け入れられ、ヒットしているというところに、わずかな希望はある気がする。