●なびす画廊で「許された果実」(杉浦大和・友枝憲太郎・松浦寿夫)。
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絵画を、限定された平面的な広がりのなかでの諸要素の分布、配置としてみるのではなく、様々な要素の時間差をもったあらわれとしてみることができる。これは字義通りの意味での層構造のことを言っているのではない。つまり、絵画は一挙にたちあがるのではなく、ある要素がたちあがるのに対して別の要素がそこからの遅れをもってたちあがり、また別の要素はそれよりもさらに遅く(あるいは速く)たちあがる。絵画空間とはこの時間差の幅とそのリズムのことだと言ってもいいと思う。そしてこの時間差の「差」のところに、4月19日の日記に書いた「隙間」が差し挟まれる。
http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20130419
例えば、友枝憲太郎の作品では、要素はスパッと素早くたちあがって素早く途切れ、要素間の時間差も小さい。ある要素の別の要素に対する関係も、後に長くひきずるような気配は希薄で、トントントンと小気味よく通り過ぎてゆく。素早いたちあがりと小さな時間差がつくるリズムが作品のきっぱりとした感触を決定しているようにみえる。
松浦寿夫の作品では、要素はじわっとたちあがり、じわっと後退する。要素と要素との間の時間差も、クロスディゾルブのような重なりをもつものとしてあるように思う。じわじわとたちあがってくる遅い時間性のなかで、ある要素と別の要素との関係性の変化も、余韻と予兆が響き合うようなかたちでじわじわと起こる。作品全体が含みもつ時間の幅もぐっと大きくなる。
杉浦大和の作品においては、時間差の幅がより増大する。それはほとんど「一枚の絵画」として観る(納める)ことが困難になるほどに大きくなっているように思った。そして、諸要素間の時間差の性質も多様になっている。ある要素とある要素とのと関係(時間差)においては、スパッとたちあがりスパッと途切れ、また別の要素間の関係においては、じわっとたちあがりじわっと途切れる。小さな容器に無理やり多くのものを詰め込んだような圧縮感と、その容器のフタをあけた時の「どこまでモノが詰まっているんだ」という感覚。
ある見方からすると、この三人の作家の作品は同系統(近いことをやっている、近い感触をもつ)ように見えるし、それは間違いではないと思う。しかしその「時間差をもったあらわれ」のあり様はかなり異なっているように思われる。これだけ大きく異なる時間性をもつ作品をいっぺんに観ると、けっこうくらくらする。