●客のほとんどいない喫茶店で本を読んでいた。店は二階にあって窓は商店街のアーケードに面している。本から目を上げると通り過ぎてゆく人が見下ろせる。自転車が通り過ぎる。大きな荷物を載せた台車を押す緑色の作業服の人が通り過ぎる。体の側面に赤があしらわれた派手なジャージを着た坊主頭のおっさんが通り過ぎる。少し前に常連らしい二人組の客が店に入ってきたことは知っていた。いつの間にかかかっている音楽の趣味がかわっている気がした。「この人、こんないい声なのに死んじゃったのよねえ」と客がしみじみ言う。言われたもう一人の方はレディ・ガガと勘違いしているようだった(ホイットニー・ヒューストンだ)。常連客が帰り、しばらくして年配の母親とその息子らしい二人連れが来る。息子のメガネの具合の話をしている。息子は乱視が相当きついらしい。その話は、最初はカメラの話のように聞こえた。その客も帰る。何度も窓の外を見る。人が通る。外はまだ薄明るい。ずっと本を読んでいたが読み切れないうちに店を出る。店には他に客は誰もいないと思っていたのに、レジに向かおうとして、さきほどの常連客が座っていた席に女性が一人いるのに気付いた。階段を下る。もう夕方で、アーケードにはちょうどいい感じの風が吹いていた。
たいして待つことなくバスが来た。少し混んでいる。吊革につかまって、片手で本を持ってつづきを読む。バスの振動を感じている。最後まで読んで、本を鞄に仕舞って、窓の外を見た。バスは信号で停車しているようだった。外はずいぶんと薄暗くなっていたが、ちょうど正面にガソリンスタンドがあって、照明に照らされた空間がひろがっていた。それは、うんと遠く離れたところから、すごい倍率の双眼鏡でステージを見ているような距離感で見えた。そのとき、自分がどこにいるのか分からなかった。というか、自分が「いる」ということが分からなかった。「どこ」という概念がなかったから「いる」ことはできない。すべては交換可能であり、だから「自分」はこの宇宙のなかにはいなかった。しかしそれはありふれた経験で、すぐに「ここ(わたし)」が戻ってくる(でも時々、それは強い揺り戻しとして耐え難いくらいに「わたし」を濃くする)。バスはしばらくして左折し、バスとバスとがすれ違えないくらい細い道(しかも夕方の交通量はかなり多い)に入って、そこをのろのろ進んでゆく。少しばかり濃くなり過ぎた「わたし」にうんざりしているので、バスの遅さに軽い苛立ちを感じ、早くバスを降りたいと思う。