●今日はとても気持ちのよい陽気だった。夕方になってから外を歩いた。
●欲望に忠実である(妥協しない)ことと、欲望を抑制しないこととは、なかなか両立しない。欲望に対して妥協しないためにはストイックであることを強いられるという逆説。例えば、変態とはおそらく欲望に対して妥協しない人で、であるがゆえに、欲望を簡単には人と共有できない(共有された欲望では満足できない)。ストイックな者はしばしば過激に走る。ここでは欲望はある種の超越性として作用している。対して、欲望を抑制しない人とは、「異性にだらしない(スケベ)」と言われるような人ではないか。欲望に対する厳密さよりも、それがあふれ出るに任せることが優先される。それはある意味で「自然体」であり、そこには欲望(とその対象との関係)の豊かさがある。スケベにはムッツリスケベ(ストイック)にはないおおらかさ、鷹揚さがある。人から愛されるのは圧倒的に後者であろう。
(欲望は必ずしも快楽を伴うわけではない、というか、そもそも快楽を目的とするものではない、欲望は、意識が知らないうちに取り交わされていた「約束」のようなものであり、「約束を果たすための道筋」のようなものであろう、快楽は約束を果たそうとすることに対するご褒美のようなものであり、ご褒美は対価=報酬ではないので、約束の遂行との因果関係はわからないのだ。)
中庸であることと、両立すること――どちらも高い強度で――というのはたぶん違うから、結局、どちらかから出発するしかないのではないか。前者から出発して後者に到達するか、後者から出発して前者に到達するか。いずれにしても片方だけでは完結しなくて、前者から後者へ、後者から前者へ、と、突き抜けてゆく(裏返る)その時に、何かが起こるのではないか。変態からスケベへ、スケベから変態へと裏返ること。それは、どちらか一方の視点からみると退行や抑圧と映るものかもしれないし、実際、おそらくある種の退行や抑圧として実現されることであるようにも思われる。
●結局、二分法というのはなんとなく何かが分かった気にはなれるが、図式化された把握であり、具体性に欠ける。だから、人が変態とスケベとの二つのタイプに分けられるということではない。ある人は、事柄Aに対してはムッツリ的に振る舞い、事柄Bに対してはスケベ的に振る舞うが、別の人は逆である、という風に、場面に応じて発動する様々な欲望の形の、配合・複合体として、その人の固有の欲望が構成されているということなのかもしれない。一人の人が常に同時に複数の局面を生きているのだとすれば、「人」という単位においては既に両立はなされていると考えられるかもしれない。