●何にしろ、あるシステムやメカニズムを知ることは楽しい。しかし、あるシステムの仕組みを理解したいという欲望は、その人が、実際にそのシステムを運用、管理、あるいは改正・創造しようとする当事者ではない場合、どのような意味をもつのだろうか。そのメカニズムを知ることによってどのような満足を得るというのだろうか。実際には何ものでもない自分が、システムを知ることで、あたかもシステムを高みから見下ろしているような気分になれるということなのか。そうでないとしたら(それだけでないとしたら)、そこには何か(自分を支えるための)世界への信仰が絡んでいるのではないか。大げさに言えば、あるシステムを統一的に理解する「視点があり得る」ということが、神の視点の代替となる、というような。
●あるいはそれが、自分がその内部に存在しているシステム、「この世界」というシステムであればどうだろうか。例えば、いつかは科学的に進化のシステムを完全に解明し得るという確信(それは、いつかはそのような超越的地点へと至ることが出来るという信仰でもあろう)が、進化論によって神---聖書---を否定する(消去する)こととトレードオフの関係になり得る、というような。
●幸福や快楽という利を得るという実践(実利)的なことだけ考えるのならば、この世界のシステムなど知らなくても、場当たり的なカンの良さや要領の良さによって上手くやってゆくことは十分に可能であるはずだ(逆に、いくらシステムに精通していても、現場的に要領が悪ければそのシステム内で上手く立ち回ることは難しいだろう)。
しかし例えば、いわゆる「インテリ」ではない、ごく素朴な意味で人柄がよく、責任感もあって面倒見もよい、周囲から自然に信頼されるような頼れる感じのおっさんが、政治的な事柄を語り出した途端いきなりとんでもないことを言いだして驚くことが今まで何度かあった(逆に、立派なことを言うけど信頼できない人、は、珍しくないし別に驚かないけど)。それは、人はいくら実践的に立派な人でも、なかなか実践的レベルだけによって自分を支えることは出来なくて、どうしても何か超越的なもの(上から目線の、胡散臭いレベルのもの)を必要してしまうということではないだろうか(このことからも、日常的な社交のレベルでは政治と宗教の話は避けた方がいいというのは常識として有効だろう)。そのおっさんの「言っていること」が否定されるべきひどいことだとしても、立派なおっさんがその「ひどいこと」を必要としているということを否定することは難しい。
●あるいは、自分にとって「理解できない」ものや「興味の持てない」ものを、「理解できない」「興味がない」という形で(無関係、無関心として)放置しておくことができず、それらをわざわざ取り上げて否定したり、おとしめたりするような発言をしないと気が済まないというような人がたまにいる。例えば、たんに「数学なんか嫌いだ」と言えばいいところを、「数学なんか社会に出てから何の役にも立たない」という言い方をしてしまう人とか。「小難しい小説なんかかったるくてつきあっていられねー」と言えばいいのに、「小説は本来、物語を楽しむべきものだから、プロットをきっちりと立てるべきで……」とか語ってしまう人とか。
現時点で、理解できなかったり、興味をもてなかったりするものは、将来それと(肯定的に、あるいは否定的に)出会うかもしれないし、一生出会わないかもしれないものとして、自分の前(外)に未知の不確定な領域としてひろがっているといえる。しかし、そのような人は、そういうものが保留としてあることが我慢できなくて、それを自分のなかにあるオレ様的世界秩序のどこかに割り当てておかないと気が済まないのだろうと思う。それには否定しとくのがてっとりばやい。つまりこれも、システム全体を上から(超越的な位置から)見下ろしたい(見下ろせるような視点がなければならない)という欲望がそうさせるのではないだろうか。それはおそらく世界(全体性)への信仰だろう。「理解できないもの」を放置できず、それをわざわざ否定しなければならないのは、それがわたしにとって「世界」に対する「信仰」を揺るがせる「穴」となってしまう恐れがあるからだろう。信仰とはそういう風に(そうと意識されない形で)わたしの存在---アイデンティティ---を支えているものだから、穴の存在は自己が否定されることを意味する、ということになる。
●そのように考えれば、そういう「嫌な人」にも少しは寛容になれるかもしれない。あるいは、「嫌な人」は「信仰」に対してたんに無防備であるだけなのかもしれない。おそらく、そのような意味での(日常的、実践的レベルの合理性には決して還元できない、何かしらの形で超越的である)「信仰」は、様々な形で「わたし」として存在するすべての人にあるのだと思う。「わたし」は「信仰」によって自分自身の存立を支え、世界とわたしとの関係を調整している。ここで信仰は、「症候」と言い換えることもできるかもしれない。すべての人がそれぞれの(意識化されない)信仰によって、つまりそれぞれの病気によって、自分を支えているのだから、他人の信仰を「信仰にすぎない」と笑うことは誰にもできない。ああいう信仰の形は好きじゃない、とは言えるけど。
●だからやはり、出来ればあまり「嫌な人」にはならないような信仰の形が望ましいとはいえる。
●しかし誰でも、自分の信仰のあり様は自分では十分に意識できないのだとも言える(「完全には意識化できない」からこそ「わたし」を支える「信仰」足り得ている)。自分の欲望を完全に透明に意識化したいという欲望もまた、世界のシステムを高みから見下ろしたいということと同型の欲望であり、信仰であり、症候であろう(それが悪いとか無駄だとか言っているのではないです)。
●芸術作品は、このような意味での、日常的、実践的レベルと、超越的レベルという捩れた階層差の間にある、裂け目というか、ねじれの位置に、ぽかんと浮かんでいるという感覚がぼくにはある。