●『時間の正体』からは一時離脱して、『ジル・ドゥルーズ』(山森裕毅)を読んでみる。「現代思想」のガタリ特集をみて気になった人だったので、ガタリ論の方に興味があったけど、まずはドゥルーズの方から読み始める。すごく明快に書かれているのでサクサク読めてしまう。そんなに簡単に分かった気になったらヤバいだろうと思いつつも、面白いのと分かり易いのでついつい先に進んでしまう。自分の頭の性能から考えて、本をサクサク読んではいけないことは分かっている。あまり先走り過ぎてはいけないので今日は我慢して第一部だけでやめておく。一部は、第二部で本格的な議論に入る前の前提確認みたいな感じで、二部になったら難しくなるのかもしれない。『プルーストシーニュ』がそんなに重要だとは知らなかった。
●この本で、ベルクソン-ドゥルーズについて以下のように書かれているのと同様のことが、『時間の正体』でも追及されていると言える。いわば、「以下のように言えること(の矛盾)」を、形式的、数理的なやり方で、厳密に、ねちっこく検証し、展開することが、されている。
≪なぜ空間は<具体的なこの経験>を成立させないのか。実際、空間のなかではさまざまな対象が作用と反作用を繰り返し、場所を移動し、互いに影響を及ぼし合っているだろう。それ自体は実際に起こっている経験のはずである。ところが空間には経験を<この経験>にする働きが備わっていない。その働きを担うのが持続ということになる。持続が主観的なものだといわれるように、<具体的なこの経験>とは言い換えれば<今・ここ・私の経験>である。しかし、持続が持続と呼ばれるのは、<今・ここ・私>が単なる存在の一点の経験を指すのではなく、これまでの時間の継起を束ねてひとつのの全体を形成しているからである。時間の継起といっても客観的な時間の継起ではなく、生きられた経験の時間的な流れでなければならない。つまり<具体的なこの経験>はそれに先立ついくつもの経験された内容を現在に含み込んだ形で成立している経験である。時間の継起の連続性、さまざまな経験の異質性、それらを束ねて全体を形成する単一性、これらの持続に備わる特性によってこそ、主観的な一貫性を備えた<具体的な経験>が成立すると考えることができる。≫
●ここで≪持続に備わる特性≫と言われていることが、具体的にどのようなメカニズムとして成立するのか(厳密には、どのように成立し得ず、その成立し得ないことそのものがメカニズムの重要な一部となっているのか)が、『時間の正体』では追及されていた。
ベルクソンに従う形で上の引用で≪空間≫と言われていることは、『時間の正体』では、現代物理学からの参照により「時空」となり、それを成立させる因果集合ということになっている。それはいわば、宇宙が始まってから終わるまでのすべての出来事とその順序と因果関係が書き込まれているものだ。ベルクソンはあくまで空間と時間は異なるとするが、現代において、それは誤謬であると言える(というかたんに、ベルクソンのいう「空間」とは「時空」のことだ、とすればよいのだと思う、「時空」の「時間」と「持続」の「時間」は別なのだ、と)。そしてその出来事の因果集合がマクタガートのいう時間のB系列と同等とされる。つまり、空間=時空(出来事の因果集合)=B系列。(因果集合とは下の日記にあるようなもの。)
http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20130414
しかし、順序と因果関係だけでは時間は「流れ」ない。それに対して、ベルクソンによって「持続」と呼ばれているのと同様な事柄が、時間のA系列として導入される(そして、A系列は「内部観測」でもある、というか内部観測として不徹底であると批判されるのだけど、ともかく内部観測として考えられる、と)。つまり、因果集合のなかの一点を「今・ここ・私」として指定することで、その指定された点を中心として、因果的過去と因果的未来が発生し、一つの流れ‐持続としての系列が発生する。A系列は、たんに順番と因果関係でしかなかった時空に、「わたしの経験」という単一性、一貫性を導入する。それによってようやく、過去・現在・未来という風に流れる時間が生まれる。このような描像については、ベルクソンマクタガートも現代物理学もおそらく基本的にはかわらない(マクタガートは、A系列とB系列の矛盾によって「時間は存在しない」と言うわけだけど、描像そのものはかわらない)。
しかし、話がここで終わらないのが『時間の正体』の難しいところで、ここで終わらないどころかこれは出発点でしかなく、これがどんどんややこしくなってゆく……。