MOTフランシス・アリス展。面白かった。他の展覧会も観るつもりで早目に行ったのだけど、フランシス・アリスを観ているだけで閉館時間になってしまった。
「レタッチ/ペインティング」。パナマ運河の脇にある道路の消えかけたセンターラインの色を塗り直す。このコンセプトだけをとってみれば、ちょっと気の利いた政治的なジョークに過ぎないだろうと思う。いや、まずその前に、この行為が「政治的」だと分かるためには多くの人にとっては解説が必要なので、ハイコンテクスト過ぎる(一部の人だけに通じる)隠語的なジョークと言うべきか。しかし、我々が作品(映像)として観るのは、そういうこととあまりにかけ離れた事柄であろう。
道路のセンターラインを塗るためには、まず(1)その場所にしばらくとどまらなくてはならないし、そして(2)しゃがまなければならない。それはつまり、ある一定の時間、その場所を低い位置から眺めるということだ。そして、いきなりどこかからやって来た外国人が道路の真ん中でしゃがみこんでセンターラインを塗り始めると、あいつは何をやっているんだということになり、(3)その行為をする人は、近所の人からじろじろ見られることになる、だろう。つまりそれは、ある一定時間、その場所を異物として占拠するということでもある。実際、バスはセンターラインを塗っているアーティストを邪魔そうに避けながら通り抜ける。気の短い運転手になら怒鳴りつけられるかもしれない。
「線を引く(塗る)」という行為を図として考えるならば、それは政治的な意味をもつゼスチャーであると言える。しかし、その「線を引く」という行為を反転させて地として考えるならば、それは、その場にしばらくとどまり、(歩いたり、車で通ったりするのとは違う)低い視線からそこを眺め、そして、そこにいる人たちから眺められるための、一種の方便のような行為とも言える。実際、アーティストの身振りは、デモンストレーションのような大仰な調子はまったくない。それを見ている近所の人たちは、彼の行為に政治的な意味が込められていると感じないだろう。
映像が映し出すのは、アーティストの行為でもないし意図でもない。彼の行為はむしろ地であり、あるいは「その場所」の様子を映し出すためのきっかけ(触媒)のようなものだ。映像が映し出すのは、色を塗りにくそうな道路の凸凹であり、道路に面して建つアパートのような建物であり、その窓であり、タライをもった女性の後ろ姿であり、運河を通る船であり、道路を走るバスであり、近所のいい感じのおっさんであり、通りかかる犬であり、布に何かじゃらじゃらしたものを縫い付けている女性であり、ベンチにたむろする(?)人々であり、パナマの光である。妙な外国人が妙なことをしているのを現地の人々やその風景が見ている。そして、アーティストを見ている人やものたちを、映像が見ている。「アーティストを見る人やもの」を見えるようにするために、アーティストの行為(線を引く)はある、という風に見ることができる。
そこでは、その行為が政治的な意味を含むゼスチャーであるという「意味」は埋没している。しかし、埋没していても、否定されたり、抹消されたりしているわけではない。アーティストの行為は、意見の表明や表現の効果としてはほとんど強さをもたない。しかし、アーティストはそのようなやり方で何かを表現する。彼の政治的なデモンストレーションは、傍らを通り過ぎる犬のたたずまいを押しのけたり、覆い隠したりしない。まわりのおしゃべりや騒音を抑制して「オレの話を聞け」という風にはしない。むしろ周囲のおしゃべりを際立たせ、それを拾おうとする行為こそが、アーティストのデモンストレーションとなる。そこでは、「線を引く」という行為によって「線を引く」ということの意味が批判的に検討されているとも言える(それは幾分かはマグリット的な反語なのかもしれない---フランシス・アリスシュルレアリスム性?)。アーティストは自らの行為の「意味」を埋没させることで、反転的に表現の強さとする。フランシス・アリスの行為(語り口)には大仰なマッチョさはない。作品は何かを主張するのではなく、ジョークの後に残る軽い笑顔のようにささやかに存在する。