●(18日からまだしつこくつづいている)
とはいえ、今回のフランシス・アリス展二期でぼくが一番好きだったのは、一番最初に設置してある「レタッチ/ペインティング」だった。パナマ運河は、アメリカ大陸を北と南に分断する線であると同時に、カリブ海(大西洋)と太平洋を繋ぐ橋ともなる線であり、そのような運河に沿って走る一本の道路(これもまた線である)の、消えかかっているセンターラインを、二本の刷毛(細いのと太いの)と黄色いペンキでちまちまと塗り直すという行為は、まずは、洒落として気が利いている。よくそれに気づいて、よくもまあそれをやろうとするよな、という。
この、大陸を分断し海と海との橋になる「線」を引いたのはアメリカの強大な力であり、その力を背景にした権力がこの線の周囲を長く支配していた。それは地球規模という大規模な権力配置、権力抗争、戦略という文脈のなかでの出来事だ。それに対し、フランシス・アリスは、そのような「線」の傍らで、ただ道路にしゃがみ込んでペンキを淡々と塗るだけである。道路のセンターラインがはっきりしたからといって、それはきっと誰にとっても大して役に立つものではないし(むしろその行為はバスが通る時に邪魔になる)、「世界」に対して大した影響は与えない。アーティストは自らが引いた線に対する権利を主張したりもしないだろう。パナマ運河という、様々な点から「大きな意味」を持つ線の傍らに、ほぼ何の意味も持たない線を黙々と引いているアーティストがいる。それを、「何やってんだ、こいつ」という風に眺めている現地の人々がいる。通りがかりの犬もいる。運河をめぐる様々な力の抗争と、まったく何の力も誇示しないアーティスト。そのアーティストを見ている風景。この圧倒的な落差と格差に、思わずにやにや笑いが零れ出てしまう。
この笑いは、ニヒリズムでもアイロニーでもない。もっと根本的な、解放に近い何かだ。フランシス・アリスの作品には、世界地図を俯瞰的に眺めるような(つまり、社会的、政治的な)視点がまずあり、そしてその後に、実際にその場に行って、その場に埋没してしまうかのような無力さを示す行為の次元がある。無力さの中で、例えばラインを塗ってみたり、子供たちを海に向かって歩かせたりという行為が行われる。この行為は、「何かに抗して」行われるのではなく、ほぼ自己目的化していて、それ自体として楽しまれ味わわれるものだ(義務も責任も伴わない)。というか、何かに抗する目的で行われたとしても、やっているうちに目移りしてそれを忘れてしまう。この、俯瞰的視点とほぼ意味のない行為との大きな「落差」の間に笑いが生まれる。そこでふっと零れる笑みのなかにこそ、世界の解放的なあらわれがあるようにぼくには思われる。