●夢の話。どこかの山奥の知らない場所でバスを待っている。山奥なのに大勢の人がバスを待っている。しかしやって来たバスはライトバンみたいにやけに小さくて、混んでもいているので、とても乗ることが出来るとは思えない。待っていた人たちもみんなブーブー文句を言う。こんな場所では次にいつバスが来るか分からないので、とりあえず山を下ることにする。遠くに海が見えるので、海までいけば帰り道が分かるだろうと思う。
海に出てみると、うんと遠くに見覚えのある景色が見えたので、歩きにくいけど海岸に沿って砂浜を歩いていけば帰れるだろうと思う。こんな時期なのに夢の設定では寒くて、海の表面がシャーベット状になっていて、寄せてくる波が時々盛り上がったままフリーズして、しばらくしてからバラバラッと崩れて引いてゆく。波の白く泡だった部分が花の咲いたユキヤナギのような形に固定されて、その後に崩れて、海に戻ってゆく。海が凍っているところをはじめて見たな、と思う。
しばらく行くと、防波堤に座って海を見ている人物が二人いて、どちらも高校時代の同級生だった(特に親しかったということはなく、その二人の関係も希薄で、なぜ彼らが、しかもペアで夢に出てきたのかわからない、とはいえ、高校は海沿いにあったので、海の場面で高校の友人が出てくるのは理解できる)。「あれっ」「おお」「しばらく」みたいなやりとりの後、一人がぼそっと、「オレ、会社やめたんだよね」と言うので驚くと、「いや、家業を次ぐためだから別に深刻なこととかじゃないから」と言う。いつの間にかぼくはかなり酔っている状態になっていて(そして、飲んだ帰りのような遅い時間になっていて)、彼が「ふらふらしてるけど大丈夫か、車で来てるから送っていこうか」と言う。もう一人はずっと無言で海を見ている。「いや、大丈夫、ちょうどいい酔い醒ましになるから」と別れたところで目が覚めた。
●どうでもいい話。ネットで調べものをしていて、曽根中生の『不連続殺人事件』がDVDでソフト化されていることを知って、思わずアマゾンで注文してしまった。ここ三十年くらいずっと観たいと思っていたのに、その機会がなかった作品。『わたしのセックス白書 絶頂度』はかなり前にソフト化されているのを観たし、『博多っ子純情』とか「嗚呼!!花の応援団」シリーズとかはわりと若い時にリアルタイムに近い感じで観ているのだけど、この映画を観る機会はずっとなかった。いや、強烈に「すげー観たい」とまで思っていたわけではないのだけど(だからこそ今まで機会がなかったのだが)、持続的にずっと、機会があれば観たいなというくらいは思っていた。それほど強いというわけではないけど持続的につづいた関心がふいに対象に出会うということがある、というのが、「長く生きている」ということなのかと思った。今の自分の関心のありようにおいて、観て面白いと思えるかどうかは分からないのだけど。
http://www.youtube.com/watch?v=7xhZXQI_Kk8
曽根中生は1988年を最後にその後一本も映画を撮っていないのだけど、ウィキペディアをみたら、今は大分県でヒラメの養殖事業にかかわっていて、それに関する特許を二つ取得してもいると書かれていて驚いた。
●『群れは意識をもつ』(郡司ペギオ-幸夫)、第四章のメモのつづき。
●群れでできた時計という概念。群れという生成の場が、反復という出来事(コト)と、その反復を生む機械的機構(モノ)に分化し、また融合し(つまり環境‐機構が崩れ)、さらにまた分化・融合を繰り返してゆく---そのようなものとして「時計」を考える。モノとしての時計(普通の時計)は「機械的機構」が持続し、それが持続する限りで一定の反復が保証される。しかし、群れとしての時計は、機構が自ら生まれ、崩れるということの反復が時間を刻む。モノとコトとが未分化なところから、区別が創出され、解消されるという反復。モノとしての時計との比較で言えば、時計が出来て、壊れて、また出来るという周期が反復されることで時を刻むような時計、ということになる、ややこしいけど。反復というコトが起こるのを、機械というモノが基底として保証する(これが普通の「科学的」な描像だろう)のではなく、群れという「コトとモノとの分化」が起こり、群れが解消されて「モノとコトとの未分化」へと帰り、また改めて「分化が起こる」という周期を反復させることで可能になる時計。
●だからこそ例えば、生物学的に記述される「捕食関係にあるキツネとウサギの個体数の振動現象」のような描像が批判される。
《(…)ウサギとキツネの振動機構の説明には、どこにもコトがモノ化する過程自体、すなわち創出過程を見いだすことができない。》
《ここではウサギの個体数変化様式は、機械的に、微分方程式の形であらかじめ与えられてしまっている。(…)振動というコトは、個体数の変化様式があらかじめ決定できるという形で、完全にモノ化され、モノ化の過程は問われない。》
《(…)群れ形成(コト)を同調形式(モノ)によってあらかじめ与えるボイドやその派生モデルにおける方法論と同じである。振動や群れ形成といったコトをあらかじめモノに対応づけたがゆえに、もう一つのモノ・コト両義性、個と全体に関しては、個の自由というモノを排除してしまった。》
コトがモノを呼び込み、モノがコトを創出するという相互予期モデルと同様、振動現象についても、振動(反復)が生じる条件・環境(コト)によって、振動を継続させる機構(モノ)が新たにその都度形成され(=コト・モノが分化し)、それによって、反復でありながら、その都度新たな反復として反復されるものとしての「振動」が実現される、そのようなモデルを考えることができるだろう。そしてそれこそが、群れでできた時計ということになるのだろう。
●長く引き延ばした楕円のような形の壁のなかに40体のミナミコメツキガニを入れる。群れはおおむね壁に沿って進み、一定方向にぐるぐる回る(方向は逆転することもある)。カニは、壁が直線に近い部分ではすみやかに進むが、壁が湾曲しているところで進行が滞り、群れが一定の密度を超えるまで待っている。つまりカニは、端の湾曲した部分で群れが成長するまで留まり、端の部分に個体が十分に集まると、群れが解けて反対の端へと移動する、ということを繰り返す。この装置を、右端、中央、左端と三つの部分に分け、それぞれの領域の個体数の推移を時間ごとにみてゆくと、右(多)中央(中)左(少)と、右(少)中央(中)左(多)を一定のリズムで繰り返す周期的振動(カニ時計)が生まれる。
このカニ時計は、相互予期モデルによっても、壁に沿って進むという規則を付け加えることで、そっくりにシミュレーションできる。この時、可能的遷移数が少ない場合は、個体は湾曲部分に長く留まり(つまり振動の周期が長い)、直線部分では早く進む。多い場合は、湾曲部分に留まる時間は短く(周期が短く)なり、直線部分の移動速度は遅くなる。
このようにして、単純な「振動現象の記述」とは異なるモデル、「動的な単位(群れの出現と崩壊)が出現し、それが、さらに高次の階層の動的な単位(その周期的な反復)を創りだす」というモデルが得られる。よって、≪モノとコトとの分離・融合過程は、階層構造の起源を説明するものでもある≫と言える。
●スケールフリー相関とは、「群れ」が、サイズに無関係に保存される「部分と全体の関係」をもっていること。
群れ全体の平均速度---すべての個体の速度を足して個体数で割ったもの---と、各個体の速度との差を、その個体のもつ「速度ゆらき」という。なお、速度とは速さと方向であり、長さをもつ矢印で示される。例えば、ムクドリの群れの、時間差をもつ二枚のスナップショットから、各個体の速度ゆらぎを割り出してみると、群れのなかのもう一つの群れと言うべき、そこだけ速度ゆらぎが他と大きく異なる個体の集団(領域)があらわれる。その時、群れ全体の大きさLに対する「群れのなかの群れ」の大きさLcの割合(L:Lc)が、群れのスケールと関係なく一定であるとすれば(直径十メートルの群れなら一メートル、直径百メートルの群れなら十メートル、とか)、そこにスケールフリー相関があると言う。
ミナミコメツキガニの群れでも、同様にして速度ゆらぎを求め、それを群れの各個体の位置に配置するとゆらぎベクトルが得られる。
ある個体のゆらぎベクトルから、ある距離だけ離れた別の個体のゆらぎベクトルを取り出し、ふたつのベクトルの内積をとる(内積とはベクトル間の定向性を評価するもの)。その個体において同じ距離にあるすべてのベクトルとの内積をとってそれを平均する。これをすべての個体に対して行う。これによって得られた値が、その「ある距離」に対する相関関数である。
縦軸に相関関数をとり、横軸に距離をとったグラフを描いてその分布をみる。相関関数は、距離が0の場合、自分自身と比べているので最大となり、距離が離れるほど小さくなり、ある距離で0になる。この距離が相関長であり、統計的な相関領域を表わす。つまり、この群れにおいては、それが「ゆらぎベクトルが強い相関をもつ相関領域の平均」ということになる。このようにして得られた「相関長」と、群れ全体の大きさとの関係を調べることで、スケールフリー相関の有無を判断できる。
しかし、実際のミナミコメツキガニではスケールの大きな群れの画像を撮影することは困難であるので、同様の動きをすると予想されるシミュレーションモデルを使って確かめてみる。すると、ムクドリにおける「群れ」と「群れのなかの群れ」との関係と同様のスケールフリー相関が、ミナミコメツキガニ・シミュレーションの、「群れ」と「相関長」との関係にもみられることがわかった。
これはつまり、群れの大きさによって、個体間で相関性のある領域(≒近傍)の大きさが変化する(個体はまったく同じなのに)ということで、「群れ」に、モノとしての個の集合を越えた、コトとしての「一つの身体(全体‐部分関係)」が現れていると言える、ということだ。ムクドリの群れにおいて、群れのなかのある領域だけ「速度ゆらぎ」の値が大きくことなるということは、例えば、魚の身体において、尾ビレだけが他の部分よりもより激しく運動するということと、類比的だと言い得るのではないか、と。
それともう一つ、身体は、縮小したり拡張したりする、ということも言える。ジャンボジェットの操縦も小型飛行機の訓練からはじまる。操縦する者の身体は、大きくなったり小さくなったりする。同様のことが群れにも起きている。
(第四章のメモはまだつづく。)