●暑かった。






●『教授とわたし、そして映画』(ホン・サンス)をDVDで。久しぶりにホン・サンスを観たけど、ホン・サンスは相変わらずホン・サンスだった。偉大だというのは、誰々と比べてこちらの方が上だとかいうことではなく、唯一無二であるということで、そのような意味でホン・サンスは偉大だ。とはいえ、ホン・サンスの映画にどっぷりと浸りたいという気持ちになるわけではなく、時折ふと触れることで、それによって自分を調律し直すというか、何かを立て直すことができるというような感じ。
ホン・サンスホン・サンスであることは、例えばホン・サンスの作品が「映画」であるということよりも強い(勿論、それはきっちり「映画」である---あからさまな映画的段取り!---のだけど、「映画」でなくてもいいし、「映画」であることを否定もしない)。時々みられる唐突なズームなども、ことさらそれに注目することもないと思う。ホン・サンスの映画にあらわれてくるのはやはり「人間」というもので、でもそれは、人間の本質を深くえぐるというのでもないし、日常的な---等身大の---リアリズムというのでもない。それは、その人がその人であることの「灰汁」というか、人間が人間であることの「灰汁」のようなもののあらわれで、例えば、俳優の魅力的な表情(美的な意味での)を捉えるというようなことは、おそらくほとんど興味がないのだろうと思うのだけど、それでも、例えばラストのカットで男性と並んで山を下りてくる時の女性の顔の表情など、その表情だけですべてを納得させてしまうようなものだ。いや、そうではなくて、決して何をも納得させないような素晴らしい表情なのだ、ということだろうか。ホン・サンスの映画は、徹底して、決して何をも納得させない映画である、というところが素晴らしいのかもしれない。
更新とか革新と革命とかいう言葉では決して捉えられないもの---でもそれは別に普遍という大げさなことでもない---なにかどうしようもなく「そう」でしかないもの、があるように思う。
●『[映]アムリタ』(野粼まど)。うーん、これはオチのワンアイデアだけの小説で、この四分の一か、せいぜい三分の一くらいの長さで十分なのではないかと思ってしまった。いや、この「オチ」を効かせるために、ある程度のボリュームをもって学園生活や映画撮影の過程を描写する必要があるというのは分かるのだけど、それがまさに、「オチを効かせるためだけ」の描写でしかない(としか、ぼくには思えない)ので、全体の三分の二くらいは退屈だった。事前に『know』を読んでいなかったら、きっと最後までは読まなかった。
とはいえ、「オチ」は面白かったし、主題としても『know』に繋がっているということが納得できた。この作家の小説は、もう少し追っていきたいと思った。
ラノベは、一冊でアニメの一話分(30分)くらいの感じで、文の抵抗をあまり感じないくらいの速度でザクザク読んでゆくのがいいのだろうか。読み方の感じがイマイチ掴めない。