●暑かった。




●『ハハハ』(ホン・サンス)をDVDで。先輩と後輩がバッタリ出会い、酒を酌み交わしながら女の話をする。互いにまったく別の話をしているつもりが、実は二人の話に出てくる登場人物は重複している。二人はそうとは知らないまま(終始すれ違ったまま)、一つの物語を二つの視点から語っていることになる。映画の話法としてとても洒落ているし、洗練されてもいる。でも、ホン・サンスが撮ると、洒落ているという感じにはならないのが面白い。
ホン・サンスの映画に出てくる「デカい男」はいつも素晴らしい。『アバンチュールはパリで』のキム・ヨンホにしても、この映画のキム・サンギョンにしても。デカい男がボサッと突っ立っている。デカい体をソファに投げ出している。母親からしかられて泣いている。
デカい男が、これから仕事に行こうとしている女性を朝食に誘う。次のカットでは、食卓にはたくさんの酒瓶が並び、二人は既にけっこう酔っぱらっている。ホン・サンスの映画を観ていると、韓国の人は一日中飲んでいて、いつも酔っているのではないかと思えてくる。
デカい男(後輩)は仕事のない映画監督のようなので、特に何もしないで一日じゅうぶらぶらしているのも分かるのだが、先輩もまた、何をしている人なのかよく分からないけど、やはり特に何もせずぶらぶらしている。愛人をともなって(もう一人の)後輩の故郷に旅行に来ているようなので、ぶらぶらしているのも分かるのだが、それにしても、普段から忙しそうにしている人とは到底思えない。そしてその(もう一人の)後輩も、詩人だとかいって、特に何もせずにぶらぶらしている。
いや、何もしないわけではない。彼らは、女性に目をつけ、誘い、口説き、目移りし、言い寄られ、浮気をし、ゴタゴタして、くっついたり別れたり、またくっついたり、絆を確かめ合ったりする。
ホン・サンスの映画を観る観客は、やや上から目線の視点をもつように思う。それは、大人が子供を見守るような視点というようなものだろう。だから観客は、登場人物に共感したり、深く感情移入したりしないし、逆に、強く反発を感じることもないと思う。
例えば、砂場で遊ぶ子供たちを眺め、そこに既に、それぞれの人格の原型があらわれており、さらにその場に社会性の原型のようなものも現れているのを見る時、それはたんにかわいいとか微笑ましいでは済まされないあるシビアで生々しい現実(あるいは「人間」)を感じるのだが、そうだとしても、それはなんといっても子供の遊びなのだから、その全体をふんわりと大きく包むような感情で受けいれることはできる。しかしそれと同時に、その視線は自分のもとへと還ってきて、どうしたって身につまされるものもあり、思わず苦笑が漏れたりもするだろう。だがこの苦笑はネガティブなものではない(そしてこの苦笑は批評ではない)。この苦笑は自らを肯定するものであり、同時に、自分を見ている高みの視線をも想起させる。
ホン・サンスの映画によって与えられる感情はこの苦笑に近いように思う。だから、映画を観る時に観客は、地球人より少しだけ進化した宇宙人の目になって地球の人々を眺めるような感じになるのではないだろうか。そこには、共感とはちょっと違う、距離(違和)と理解(受け入れ)と苦笑がある。自らが宇宙人としての視点をもつということは、同時に、地球人としての自分を見ている宇宙人的な視点を感じるということでもある(しかしこの宇宙人は視点としてだけ存在し、なにもしてはくれないが…)。
●『死なない生徒殺人事件』(野粼まど)。面白かった。『[映]アムリタ』も『舞面真面とお面の女』も、終盤の四分の一か三分の一くらいがあればそれだけでいいんじゃないかと感じてしまったのだけど、これは一冊通して面白かった。三作目にしてとうとう「来た」という感じ。そしてこの作品はかなり直接的に『know』に繋がっている感じがする。
この作家はどの作品も同じ話の別のバリエーションだ、というのは言い過ぎだとしても、ぼくが読んだ四作にはあきらかに共通した主題があり、そしてこの作品でようやくその主題が前面に(というか全面に)出てきたという感じなのだと思う。主題が全面に出てきたからこそ、段取りが単なるどんでん返しのための段取りではなく必然性をもつものになっているし、細部も主題の必然性と絡むようになっている。
『know』で、ヒロインの「中から」先生がぬっとあらわれるシーンと同じあの感触が、この『死なない…』には一貫してあるように思う。