●水彩紙に水彩で描いた。





●『紅の豚』をDVDで観た。これは初めて観た。変なダンディズムとかが満載なのではないかという先入観があって(公開時の宣伝の仕方がそんな感じだった)これまで避けていたのだけど、そういう作品では全然なかった。
他の宮崎作品で言えば『名探偵ホームズ』に近いテイストで、むしろ、宮崎駿が「スタジオジブリ長編映画をつくる人」になって作りづらくなった「素朴な漫画映画への回帰」みたいな感じを志向しているように思われた。
実在する土地(外国)の特定の時代が舞台で、主人公が少年や少女ではなく大人でも、それが(擬人化された)動物であれば、素朴な漫画映画的なフィクションとして成立し得るという計算は、おそらく「ホームズ」の経験から来ているのではないかという気がした。ただ、「ホームズ」では登場人物すべてが犬だけど、「豚」では主人公だけが豚で、それ以外の人物は普通の人間であるという点が違う。それに、1900年前後のロンドンという「ホームズ」の舞台は漫画映画的フィクションになり易いけど、それが、世界恐慌の時期でファシズムが台頭しつつあるイタリアということになると、舞台そのものが現実の歴史との関わりにおいて「意味ありげ」になる。その辺りがやや中途半端な感じはした。
この時代設定はおそらく宮崎駿の趣味であり、この時代のイタリアの飛行機なり様々な小物なりといった風俗的な雰囲気が好きで、そのような雰囲気を背景にして、思い切り飛行機が飛びまわる「漫画映画」をやりたいということがまず最初にあるのだと思った。とはいっても、ファシズムが台頭するイタリアということになると、なかなかそれは難しい。
いや、そういうことでもないのかもしれない。そもそも宮崎駿は歴史を題材とするのがあまり得意ではないということなのかもしれない。この作品への不満は要するに「力を出し切っていない」という感じで、「この題材、この話だったら、この程度の力の配分で---今までの経験から考えて---なんとかやれる」みたいな予想できる手慣れた範囲内でつくられている感じがするところなのだと思った。そしてその「出し切れていない」原因の小さくない部分に、「考証」のようなものに引っ張られ過ぎて(あるいは頼り過ぎて)十分な飛躍が起こっていないということがある気がした。
空賊(空中海賊)の描写にしても、アメリカから来たというライバル役のキャラにしても、ピッコロ社の描写にしても、フィオという少女キャラにしても、(決してつまらなくはないにしても)宮崎駿ならこれくらいはやるだろうという範囲内であり、いかにも宮崎駿がやりそうだという範囲内に収まっているように思えた。
とはいえ、フィルモグラフィをみてみると、この時期はすごく迷っていた時期なのかもしれないとも思う。ジブリは安定して成功しているし、自分も「ナウシカ」や「トトロ」で既に大作家となっているけど、では、今後、自分がすべきことは何なのか、自分の仕事として何が残されているのか、どこへ向かうべきなのか、ということで迷っている感じかもしれない。
で、この後、「もののけ」「千と千尋」「ハウル」「ポニョ」という、ある意味でそれ以前のキャリアを投げ捨てて前へ進んでいくような、驚異の快進撃(それは迷走と紙一重であるようなものだ)がはじまる。バランスの良い娯楽作という範疇を越えてしまって、行き先が見えない未踏の領域に踏み込んでゆく。素朴な見方をしても、この後から大きな作風の変化があって、いわゆる「漫画映画」という感じではなくなってゆくのだし。
だからこの作品は、分かれ目に位置しているのかもしれない。この作品をつくって、このままでは駄目なのではないかと思ったのかもしれない。何かに「回帰」するのでは駄目だ、と。いや、実際はこれはこれなりに十分すごいものだとも思うのだけど、宮崎駿としては、今後、安定した巨匠としてこのようなものを再生産してゆくのでは満足できないという風に思ったのではないか。やはり、この人は呪われているのだなあ、と。
●あと、『紅の豚』はいろいろな点で『風立ちぬ』を想起させる。似ているという点でも、あるいは逆を行っているという点でも。
●主人公のアジトである入江をみて、『ムーンライズキングダム』を思い出した。