●『げんしけん二代目』が素晴らしい。
前半、波戸くんの過去の回想場面があって、なんだ、「波戸くんがなぜこうなったのか」をこういうありがちな物語によって説明してしまうのか、と、少し失望しかけたのだが(とはいえ、その「理由」をトラウマとかにするのではなく、あくまで「あこがれの先輩」のためとするところはとても上品だと思った)、後半の展開がその失望を補って余りあるというか、そんな回想=説明など軽く飛び越える跳躍力をみせているところに感動した。こちらの予想の遥かに上をゆく神永先輩の「腐り度合い」がすばらしい。さすがに波戸くんがあこがれるだけのことはある。そして、それにちゃんとついてゆける波戸、荻上もすごい。
「波戸くんがこうなった理由」について、そこにトラウマ的な何かがありそうだと匂わせておきつつも、それをキワキワのところで回避するとか、とはいえ、その理由を回想によって根拠づけて着地させてしまうのかと思わせておいて、「腐女子の妄想力」によってそれを上回る展開を重ね描きしてみせる、とか、一方で、ありふれた紋切り型の展開の流れが基本としてあって、しかしもう一方で、そのありふれた流れを決して否定することなく、その流れのなかから流れを飛び越えるようなもう一つの流れが生み出されるところが、「げんしけん」のすばらしいところなのだと思った。そして、「ありふれた流れを否定することなくそれを越える跳躍力」を生むものが、オタク的な文化であり、想像力だということなる。
●波戸くんの過去の回想場面に失望しかけたと書いたけど、よく考えると、波戸くんの神永先輩に対する感情が、恋愛感情ではなく、あくまで「腐女子としての理想像」であり、だから、波戸くんの兄と神永先輩が付き合うことは波戸くんにとっては失恋ということとは微妙に違うという展開は、とてもデリケートな関係の操作で、それが、後半の展開で「効いて」くるのだから、それに失望するのは間違っているのかもしれない(ものすごく複雑で繊細な感情‐欲望が造形されている)。
波戸くんは、自分がネタとしてそのなかに組み込まれている妄想に対しても、それを外側からみて自分でハアハアすることができるというメタ的な特質をもっているのだけど(それによって波戸くんは「男パーション」と「女バージョン」の両立が可能になっていると思う)、それがまさに神永先輩から受け継がれたものであり、そして、神永先輩のその特質(極意?)が、波戸くんのそれを大きく上回るものであることが、ここでは「跳躍」として示されていた。
自分自身が当事者である現実上の「ある関係性」を、まるでフィクションであるかのように外側から眺め、それをフィクションのように楽しむことが出来るということ(これだけだと「解離」であろ)、そしてそれが、「当事者としてのわたしを生きる」ことと両立し、共存している---並立処理ができている---ということは、「どんな時でもわたしを外側から冷静に見ているもうひとりのわたしがいる」みたいな、ありふれた自意識過剰とはまったく別のことだし、「わたしを見ているわたし、を見ているわたし、を見ている……」的な、自己言及の無限後退ともはっきりと違う。
それはおそらく、共感とか感情移入という心の動きとは根本的に異なる、抽象性を媒介とした「関係萌え」という感情の演算処理によってはじめて可能になることなのだろうと思う。
(そしてそれと同時に、並立処理が成立していたとしても、そのそれぞれに自律しているはずの二つの流れの間にもまた、相互干渉もあり得るのではないかというニュアンスまでも、この作品は---波戸‐斑目関係として---描こうとしているように感じられる。)