●『げんしけん二代目』が終わってしまった。ここ三か月の間、この作品が観られて幸せでした。
最終話は、登場人物のすべてに向けた配慮かきちんとなされていてよかった(大野さんがちょっと弱い気もするけど、前回が半分は大野さんの回だったからまあいいか)。例えば、朽木くんが新入社員の研修で苦労しているところがほんの一瞬示されるだけで、朽木くんというキャラに、たんに場をひっかきまわすためだけの存在ではない広がりが生まれ、作品全体の厚みがぐっと増す。矢島さんによるはじめての「女装肯定」発言も聞けた。全編にわたってスーが動き回り、暗躍しているのもよかった。「二代目」では多くの場合、スーが物語を動かす重要な働きをしていたことを改めて思った(最後のスーのセリフは『風立ちぬ』なのか?)。ただ、ラストのカットで部室に朽木くんがいないことが、ちょっと気になった。
また、四、五年後くらいの忘れたころに、その時のオタクカルチャーネタをたっぷり含んだ感じで再開してくれたらいいなと思った。
(追記。ラストの場面で朽木くんはちゃんと部室にいた、というメールをいただきました。ネットに上がっている動画で確認したところ、部室の入口付近にいて、フレームからすぐに外れてしまいますが、確かにいました。ああそうか、朽木くんはこのポジションなんだ、と、納得しました。)
●『ガッチャマンクラウズ』では、物語のごく初期の段階で、「決して悪人をやっつけないアンチヒーロー」としてのヒーロー物であることがはっきり示されていた(アンチヒーローとしてのヒロイン「はじめ」がMESSと仲良くなってしまうところで「悪をやっつける」ことが思いっきり否定された---つまりガッチャマンの存在意義が否定されている)。しかしその後、本当に世界を滅ぼしてしまいかねない困った人(ベルク・カッツェは悪人ではなくあくまで「困った人」だし、「梅田さん」もそうだ)が出てくる。この時、問題はおそらく二つあって、「困った人に煽られて簡単にカタストロフィーに向かってしまうこの世界」をどうするのかということと、「困った人」をどうするのかということだろう。「困った人に煽られてカタストロフィーに向かう世界」とはつまり、「困った人を不可避的に生み出してしまう世界」でもある。
通常のヒーロー物では、一方でカタストロフィーをヒーローの力で収拾させ、さらに困った人をやっつけることで、(その間にいろいろな悩みや葛藤や犠牲があったとしても)秩序は回復され、一応の結末となる。あるいは収拾に失敗して世界滅亡という場合もあるかもしれない。「困った人に煽られてカタストロフィーに向かう世界」であり「困った人を不可避的に生み出してしまう世界」であるこの世界はまた、「困ったことがあるとヒーローの出現を期待してしまう世界」でもある。しかしガッチャマンには、事態を収拾する力もベルク・カッツェをやっつける力もない。「はじめ」は、「これはもうぼくたちの力だけではどうしようもないっすねぇ」とか言う。そのことは、作品のはじまりから「悪をやっつけない」ことが示されている(つまりヒーローによる救済は封印されている)以上、自明なことだ。
では、そのような状態(ヒーローは役に立たない状態)でどうやって「困った人に煽られてカタストロフィーに向かう世界」と「困った人」とをどうにかするのか。『ガッチャマンクラウズ』では、「悪人をやっつけない」という最初の前提を崩さないままで(O・Dはベルク・カッツェを殺さないで手帳を奪うだけだ)、最終話ではとにもかくにも(よろよろとした足取りながらも)、そこに一定の、あるいは最低限の、解(あるいは方向性)を導き出すところまでは持っていっていると思う。それはやはり、すごいことであるように思った(つっこみどころは山のようにあるとしても)。