●『攻殻機動隊ARISE border:1 Ghost Pain』。これはつまらなかった。「攻殻機動隊」をスタッフもキャストも一新した新シリーズとしてつくる、というだけでハードルは相当上がっているはずなのに、「武器横流しに関する軍の組織的な隠ぺい(出来事)」や「知らないうちに記憶を改ざんされてました(仕掛け)」、または「少女の形をした自走地雷(ガジェット)」みたいなありがちなネタばかりで、特にこれといって新しいアイデアも新鮮味も工夫もないし、ビジュアル的なデザインや美術などもあまりかっこよくないし、演出も特に冴えているということもなくて、「攻めの姿勢で斬新なことをやろうとしたけど空回り」ならばまだよいと思うのだけど(「攻殻」なのだからせめて「攻めの姿勢」はみせてほしかった)、「手堅くやってそれなりではあるけどイマイチ」な感じになってしまっていると思う。お馴染みのキャラの昔話だからファンはそれなりに納得するだろうみたいな後ろ向きの感じ。ノスタルジックな雰囲気をつくろうとしたのかもしれないけど、たんに古臭いだけに感じられてしまった(ネタも仕掛けも表現もいちいち古いというか、いまさら感があるものばかりで---新鮮味のない攻殻など攻殻と言えるのか、と思った)。押井版とも神山版とも違うという「違い」が明確に打ち出せていないので、なんか違うんだよなあという中途半端な違和感ばかりを感じることになってしまった。
まあ、出だしだから設定の説明みたいになってしまったのかもしれなくて、つづきがあるらしいので、次はもっと攻めてくれると期待したい。
●『ガッチャマンクラウズ』には二つの軸があると思う。一つは「はじめ」というキャラクターで、もう一つは「クラウズ」という仕組みだ。前者はこの作品の思想的側面にかかわり、後者は社会派的な側面にかかわると言える。ここでは後者の「クラウズ」について考えてみる。まず、クラウズが意味をもつためには、その前提条件としてギャラックスというメディアがほぼまんべんなく浸透している必要がある。その上で、という話になるが、クラウズにはおおざっぱに四つの特徴があると思う。
(1)匿名性。クラウズによる行為(現実への介入)は匿名的であり、それを誰が操作しているのか分からない。クラウズのスペックはどれも同一であるから、クラウズを使うすべての人には(地位や財産や年齢や性別や身体能力にかかわらず)平等な社会的能動性が与えられる。しかし社会的なしがらみや事情がある場合、関係への配慮によってそれを十分に活用できないかもしれない。匿名性によって、社会的しがらみに拘束されない能動性が確保される。
(クラウズはどれも同じ---固有性がない---が、ギャラックス上のアバタ―は固有性---キャラ---をもつので、ギャラックス空間そのものは必ずしも匿名的というわけではない。)
(2)透明性・相互承認性・ゲーム性。これらの三つは同じことの三つの側面だと言える。クラウズによる行為は、誰がそれをしているのかは分からない---匿名だ---が、(誰かは分からない誰かが)「何をしているのか」はすべてのギャラックスユーザーに対して透明である。それがもたらす効果はまず、秘密裏に行為を遂行することができないということである。クラウズを用いた場合、誰にも知られないで何かをすることは不可能であり、もし仮にたまたま誰も見ていなかったとしても、すべてのクラウズの行為は人工知能「X」によって把握されている。それによって、極端な行為は抑制されるだろう。計画的な犯罪やテロ行為などへの利用は(それを完全に防ぐことはできないとしても)かなり難しいと言える。
クラウズを用いるあらゆる行為は「誰かに見られている」。どんなにローカルな場面での些細な行為であっても、それは閉じられた場の中だけのものではなくひろく公のものとなる。それは互いに互いを評価し合うことが出来るということだ。誰かに対する評価をポイントとして投票できるとすれば、そこに、他者からの承認への欲求と、ポイント獲得を争う競争への欲求という行為へと向かう二つのモチベーションが発動されることになる。良い行いをすれば(目立つ舞台に立っていなくても)それはどこかの誰かが必ず見ている。ポイントを争うゲーム性(遊戯性)も生まれる。それは同時に、何か行為をすればほぼ確実に一定の批判は受けるということでもあるけど。
(3)無償性。とはいえ、クラウズによる行為は匿名の行為であるので、その得点はあくまでギャラックス上だけで有効なものとなる。承認も競争も自己満足というレベルのものであり、ギャラックス上での評価をリアルな社会へ持ち出すことはできない(行為はリアルだけど、評価や競争はバーチャルだ、という「ねじれ」がとても重要)。競争に勝っても就職に有利になったりしないし、キャリアにも結びつかず、高得点をとっても学校で注目されたりモテたりしない。勿論、お金持ちにもなれない。だから、クラウズによって社会的な格差がひろがることはないし、クラウズによる行為---社会参加---を強制されることもない(だから、無関心でいる自由は確保される)。しかし無償であるからこそ、それは純粋な---社会的なしがらみと関係ない---「楽しみ」であり得る。
(4)集合性。クラウズはすべて同じであり、ギャラックス上のアバターのようなキャラクター(特徴や固有性)による個別性をもたない。あらゆるクラウズは平等に、フラットに「一」であるし「一」でしかない。故に、クラウズ間での集合や離散がなめらかに行われる。個と群との関係がフレキシブルになり得る。個人の判断や行動が、個人のものであると同時に、社会的には雲のような「流動性をもつ塊」になる。
例えば、あいつの言っていることは確かにもっともだけど、あいつのことは人としてどうしても気に入らないから、あいつと一緒には働けない、とか、逆に、あの人の言っていることに疑問はあるのだけど、自分はあの人に惚れ込み、あの人についてゆくと決めたのだから---あるいは「恩」があるのだから---それに従う、というような、情や関係性からは切り離される。これは「無記名投票」と同様の効果---個人の判断が直接的に「数」に反映される---をもつだろう。
勿論、リアルな社会は依然として縁や情やしがらみで動いてゆくのだろうから、人間的な感情が否定されるわけではない(情やしがらみは、時にうっとうしいものでもあるが、別の時には「あたたかいもの」でもあり、それを否定することは適当ではない)。一方で、情やしがらみによって動くリアル社会があり、それによる一定の安定性が確保されつつ、他方で、それとは異なるもう一つの社会的能動性がクラウズによって与えられる。後者は、新たな関係性を創出する契機となり得るだろう(とはいえその一方で、祭りや炎上を繰り返すだけにもなりやすい)。つまり、二種類の、二本立ての社会性を人がもつようになる。
以上の四つの特徴を考えると、「匿名であり、かつ透明である」というクラウズは、かなりバランスよく考えられた仕組みであるように思われる。また、ギャラックスを運営するルイは当初、「ギャラックスがあれば政府なんていらないじゃん」というような感じだったけど、終盤の段階では、行政や警察、消防、自衛隊などの既成の制度や権力と積極的に協働するようになる(これは「はじめ」によるコラージュ的思考でもある)。実際問題として、クラウズによる「自発的な力」が発動されるまでにはどうしても時間がかかる(まず、クラウズの暴走があり、その暴走のあまりの拡大に、最初は面白がっていた人たちも見かねて、それを回収しよういう動きが自発的に生まれる、そこではじめてクラウズの無条件配布の意味が出てくるという流れだった)。だから、暴走から自発的な力の発生までの「猶予期間」の間、突発的な出来事に素早く、暫定的に対処するための安定的な仕組み(制度や権力)はどうしても必要となる。これは、ある程度安定し固定された制度や権力と、流動的で創発的な力との協働であり、同時に、その相互抑制(相互けん制)でもあり、その間には常にコンクリフトは生じるだろう(どちらか一方だけでは無理、ということ)。ガッチャマンという存在も、どちらかというと固定的な権力の側で、警察や自衛隊のなかの特殊な一形態みたいな感じの、例えば「攻殻」の公安九課みたいな位置づけなのだと思う(ガッチャマン=公務員)。だから、ガッチャマンとクラウズは、協働は可能でありつつも相反するものではないか。
ギャラックスというメディアが、「固定的な権力」と「流動的で創発的な力の発生」とを媒介し得るものでもあるという点が重要だろう(「はじめ」によるコラージュオフ会のようなものが可能になったりとかする)。しかしこれを取り仕切るには「X」という人工知能が必要であった(最後の方では首相が「X」と相談していた)。そもそもギャラックスが普及する時に言われていた「ギャラックスの良さ」は、「Xによる仕切りのうまさ」であった。これはおそらく、人間ではない知性(あらゆる「個別の事例」を、「代表」を介することなく公平にまんべんなく見渡すことが可能な人工知能「X」)によってはじめて可能になることではないか。そもそもクラウズの四つの特徴は、すべて「X」の力がなければ成り立たない。このような人工知能による「媒介」こそが社会を変え得る。だがこれは、いわゆるビッグブラザーによる支配とは大きく異なるビジョンだろう。
やはり、『ガッチャマンクラウズ』の示すビジョンは相当面白いと思う。