●論理的か直観的か、理性的か感性的か、あるいは散文的か詩的か、等々、そういう区別にはもうほとんど意味がないと思う。問われるべきなのは、1Dか、2Dか、3Dか、4Dか、5Dか……、ということだと思う。つまりそれがどれだけ多くの座標(系)から出来ているのかということ。2Dや3Dなら、人間の言語やイメージによって捉えられるからそこに論理性を見出せるけど、4Dや5Dになるとそれでは追いつかなくなって直観的にしか捉えられなくなる。直観とはこの時、表象をもたない感覚的判断とでもいうものだろう。しかしそのようなものも、ちゃんと4D、5Dとして(座標の数に応じて)解析できれば、そこに論理性をもった秩序や因果関係が見出せるかもしれない。そうであれば、論理と直観は別のものではなくなる(複数の論理が4D、5Dと重ねあわされた結果として現れるものなので、非論理、反論理ではない)。直観は多次元化された論理であり、逆に言えば、通常の(理解‐納得可能なレベルでの)言語や論理によって記述できるような判断は単純すぎるということになる。
「考えるな、感じろ」という言葉は、2Dや3Dで捉えるのではなく、4Dや5Dで捉えろ、と言っているのだろう。しかし、直観や感情は時に非常に単調な1D(というか、多くのディメンションのなかで特に強力な一つの力)によって流される場合がある。そういうレベルの直観や感性は最低だ。そのような最低の感性の横行に対してなら、(通常の意味で)論理的であることは有効になる。
とはいえ、「(通常の意味で)論理的であることが有効である」ようなレベルでは、もう全然足りないという気持ちが強くある。