●「正しく理解する」ということと「納得する」ということは違う。人は、納得さえしていれば理解などしなくても生きてゆける。パソコンやスマフォを正しく理解して使いこなしている人はごく少数だろう。しかしそうでなくても、使い方の感じを納得してさえいれば使うことができる。「印象派は理解できるけどピカソは分からない」という人は、本当は、印象派なら「納得できる」と言っていることになる。そして、何を、どのような形で掴めば「納得する」のかという納得の形式は、人それぞれ大きく異なっている。「正しい理解」は、たとえ「一つ」ではないとしても、限られていて、決まった道筋がある。しかし、納得の形式は人の数だけあると言ってもいいと思う。
(おそらく「納得の形式」は、物語、イメージ、感覚と、要するに広義のフィクションと密接に関係がある。)
このような「正しい理解」と「納得の形式」の乖離、またはズレは、人間においてとても大きなことだと思われる。社会的なあつれきのほとんどがこのことが原因であるようにさえ思われる。コンピュータのプログラムを書く時は、一か所でも間違っていればそれは間違って作動するだろう。コンピュータは、間違いを正しく理解し、間違って動く。しかし、この文のように、自然言語で書かれた文は、多少間違っていたとしても読む側が適当に補正してくれるし、時には書いてもいないことまで読み込んだりもする。ただ、読まれるか読まれないか(関心を引くか、納得されるか)は、読む側それぞれの納得の形式に依存するだろう。
(「正しい理解」と「納得の形式」が完全に乖離しているのなら、それはそれで扱いやすいかもしれないけど、人間においてはおそらくこの二つは複雑に絡み合って切り離せないところが厄介なのだと思われる。正直言えば、「正しい理解」はもうぜんぶコンピュータにまかせちゃっていいんじゃね、という気持ちがぼくには少しある。)
例えば、「1=0.999999…」ということを納得するのは簡単ではない。ぼくの理解が間違っていなければ、これは極限とか収束という数学上の概念を理解していればすんなり納得されることだろう。しかし、数学に詳しくない人にとっては簡単に呑み込めることではない。以下は、「1=0.999999…」をどう考えるのかについて、数学的な「正しい理解」の道筋を示すのではなく、無知な者(ぼく)がもつ貧しい手持ちの知識のなかで発動される、ぼく自身の「納得の形式」が、どのように作動するのかということを、実験的に一つのシミュレーションとして記述するものだ。いわば、(数学的には無意味であるとしても)一つの閉ざされた(ローカルで独善的な?)「納得の形式」の作動例であり、極めて限定的な情報しか与えられない時に(小学生に毛が生えた程度の知識という限定が条件として与えられている、というなかで)思考がどう動き得るのかという例のようなものとして、書いてみる。あくまで「納得の形式」のサンプルとして。
(限られた環境、限られた素材、限られた知識、限られた技術を用いて、どういうことが出来るのか、ということが、ぼく自身の重要なテーマだということもある。)
●1=0.999999…
ということに対する驚きと戸惑いがある。ぼくのイメージだと、0.999999… は、限りなく1に近づくけど決して1に達しない何か、だと思っていた。例えば、種を植えると一年で1m成長する木があるとする。二年目は最初の年の半分(50?)のびて、三年目はその半分(25?)という風に、前の年に成長した半分の長さだけのびる木があるとする。この時、
1+1/2+1/4+1/8+…
となって、これを無限につづけると限りなく2mに近づきつづけるけど、決して2mには達しない。それと同じように、0.999999… も、限りなく1に近づきつづけるけど1には達しないものだと思っていた。
でも例えば、A=0.999999… として、10A−A を考えてみると、10A=9.999999… とA=0.999999… とで、小数点以下の無限につづく9 が相殺されるから、9A=9となって、A(0.999999…)=1になるという。あるいは、
1/3=0.333333…
が成立するとすれば、両方の辺に3をかけると、
1=0.999999…
ということになる。
上の説明だと、無限に対して無限をあてることで無限が相殺されるので、どこか誤魔化されたような感じもするのだけど、下の説明だと押し切られるように納得させられてしまう。
ただ、何故ぼくは、1=0.999999… には違和感をもつのに、1/3=0.333333… は普通に受け入れてしまうのだろうか、という疑問が湧く。0.333333…も、永遠に1/3に近づきつづける何か、という点では同じなのに。
これは、分数だと、例えば「1/3」は「1÷3」であり、「1を3で割る」という行為をあらわしていて、それが「0.33333…」の「永遠に近づきつづける」という行為と同等に感じられるけど、整数である「1」は、それ自体で完結し静止しているように感じられて、それが「永遠に行為中であるもの」とイコールで結ばれることへ違和感を覚えるのかもしれない。
いや、でもそもそも、「=」というのは異なる形へと変換するということで、「8=5+3」だって、完結したものと行為とを「=」で結んでいる。異質のものを結び付けるのでなければ、「1=1」のような意味のない反復になってしまう。とはいえ、「3+5」は、いつかは完結する(完結することを期待される)行為であるけど、「1/3(1÷3)」も「0.333333…」もどちらも、永遠に完結しない(完結することが期待できない)行為であるから、「8=5+3」と「1/3=0.333333…」は、前者は限定と限定、後者は無限と無限という意味でつりあっていると言える。だから、「1=0.999999…」への違和感は、限定と無限とがイコールで結ばれることへの違和感なのだと思われる。
だけど、「0.999999…」は、永遠に「9」が反復されるけど、「9」以外のものが出てくることはないと分かっているので、演算はそこで終了しているともいえる。それに対し、例えば「π=3.1415…」は、どこまで計算していっても規則性のない数字の羅列が永遠につづくので、演算は永遠に終わらない(例えば、「10A−A」のような操作で無限と無限とを相殺することもできない)。つまり、「…」の意味が全然違う。そんな「永遠の行為」でさえも、それをひとたび「π」と名付けてしまえば、あたかも終了した演算であるかのように扱っても特に違和感はなくなる。中がどこに繋がっているのか分からない空洞をどこへでも持ち歩くことができるようになる、みたいに。
だとすれば、「1=0.999999…」に対してもつぼくの持つ違和感は、たんに表象上の(名づけの)問題でしかない中途半端なものということになる(例えば、「A=0.999999… とすると」みたいな操作は、既に無限を「名づけること」で限定に置き換えてしまう操作なのに「A」が数字ではない抽象的な記号なので違和感なく平気でやってしまっている)。でもそうなると、通常の計算においても当然のように、限定されたもの(として取り扱われるもの)のなかにも無限が含まれているという感じになる。「1=0.999999…」を、「1」が必ずしも完結し静止したものであるとは限らない、と読むことも出来るようになる、といえるのかも。