●お知らせ。「すばる」1月号に、保坂和志『未明の闘争』の書評(「未来の我々のために」)を書いています。レイ・カーツワイル(『ポスト・ヒューマン誕生』)VS保坂和志(『未明の闘争』)という感じで書きました。
●ネットで、十川幸司『来たるべき精神分析のプログラム』が出版された時に行われたという、十川幸司、原和之、立木康介による座談会の記録を見つけた。「2009/05/29 岩波書店」と書かれているだけなので、どのような媒体に出たものなのかよく分からないけど。まだ「その一」しか読んでいないのだが、とても面白い。この本は読んでみたいと思った。
(立木庸介が「文藝」で連載していたものが最近本になって、それについてなんとなく、「どんな感じなのかなあ」と検索していてみつけた。)
その一
http://kitarubekiseishinbun.blog.so-net.ne.jp/2012-02-11
その二
http://kitarubekiseishinbun.blog.so-net.ne.jp/2012-02-12
十川幸司は、自分はラカン派よりも(ビオンなどの)対象関係学派に近い、と言っていて、「自己」というものを、「感覚」「情動」「欲動」「言語」という四つの回路が重なって出来ているオートポイエーシス的なシステム論として考えているようだ。そして、「感覚」と「欲動」はコミュニケーションを行わず、「情動」と「言語」がコミュニケーションを行う、と。以下、十川幸司の発言から引用。
≪コミュニケーションといっても、システム論におけるコミュニケーションは、主体が行うコミュニケーションではなく、コミュニケーションが行うコミュニケーションです。これは議論の前提です。その上で、先ほど挙げた四つの要素を見るなら、感覚や欲動はコミュニケーションを行わない。一方、言語や情動はコミュニケーションを行う。おそらく人間だけがこのような誤解と暴力に満ちたコミュニケーションを行う動物ではないかと思います。人間と動物の境界をどこに引くかというのは、きわめて難しい問いですが。少なくとも今言った意味での言語的コミュニケーションは動物にはないでしょう。しかし、情動に関しては、一般的な意味でのコミュニケーションはもちろん、システム論的な意味でのコミュニケーションも動物は行っているのではないでしょうか。≫
●コミュニケーションにかかわる言語と情動との関係について。
≪言語と情動が最も緊密に結びついているのは、ヒステリー患者です。ヒステリー患者は、みずからの無意識を自由連想によって物語る驚くべき能力をもっています。そして、その話に対して解釈を加えると、その解釈が情動を巻き込んだ形で患者の症状にまで届く。フロイトが『ヒステリー研究』で取り上げているのも、ヒステリーのこのようなメカニズムです。ヒステリー患者が少なくなってきたという話はよく聞きますが、実際少なくなったのは派手な症状を呈するヒステリー患者であって、ほとんど無症状で、一見ありきたりの悩みを抱えているヒステリー患者は今でも数多くいます。そういう人の治療では、言葉の力というものを明確な手ごたえをもって実感できます。≫
強迫神経症者では言語と情動の連動は低い。こういった言語と情動の連動の程度は、神経症選択の問題と深く結び付いています。≫