●普通に生活しているなかで最も高揚する時間はなんといっても散歩をしている時だ。散歩によって得られる興奮や充実を超えるものに出会うことは稀なことだ。だが、散歩という行為は基本的に他者や言語への回路とつながっていない。それは、世界(風景)と感覚との間のループが、着地する目的をもたないままぐるぐる回っていって、そのループ自体が自分で次第に発熱し、繁殖し、高揚するようなことだ。夕日を見る「わたし」の感覚、その感覚によって興奮する「わたし」の身体は、それ(夕日を見て興奮すること)以外のどこにもつながらない。
十川幸司『来たるべき精神分析のプログラム』では、人が、感覚、欲動、情動、言語という四つの異なるシステムの複合として捉えられている。そのうち、情動(他者との同調や反発)と言語はコミュニケーションを行うが、感覚と欲動は行わないとされる。例えば欲動は、情動というシステムとの協働によってはじめて他者への通路をみつける。「寂しさと性欲の区別がつかない」という時、寂しさ(情動)によって性欲(欲動)は具体的な他者への通路を得る。欲動それ自身は、孤独な空想や幻想を生産するのみだ(幻想には、自分に対する幻想と世界に対する幻想との二種類がある)。
●では「作品」とは何か。作品が、感覚や欲動を表現しうるものだ、とする。「表現する」ということは他者へと向かう力であり、であれば、それは情動や言語を媒介とすることになる。実際、作品は人の情動に働きかけることで人の関心を誘い、また、作品は、社会的、歴史的、ジャンル的な文脈・配置の上で意味をもつとされる。しかしその時、作品は、感覚や欲動を表現するものというより、情動や言語それ自体になってしまっているとも言える。作品とはコミュニケーションである、ということになってしまう。ではやはり、感覚や欲動は表現(伝達)され得ないのだろうか。
クオリア問題、あるいは心身問題。例えば、「わたし」が「赤を知覚している」時の脳の状態を完璧にコピー出来たとする。でもその時、そのコピーされた脳が本当に「赤の感覚」をもっているかどうかは、その脳に聞いてみなければ分からない。あるいは、自分がその脳になってみなければ分からない。
錯視やデジャブなど、この手の実験は、自分が被験者にならなければあまり意味がない。実際にそう感じたとその人が言っていること(言語)は言説上の配置の問題であり、実際の「その感じ」を表現しない。
あるいは、たんなるクローンではなく、脳も身体も意識も感情も、そしてクオリアさえも完璧に自分と同じように作動するコピーが仮にもう一人できたとして、「わたし」は、「そいつ」を自分だと感じることが出来るのか。そいつの内側に入り込むような感じで、それを「わたし」だと言えるのか。むしろ、最悪の敵(鏡像的他者)となるのではないか。
人工知能が本当に「意識」をもっているかどうかは、外からみる限り、チューリング・テストのようなやり方で判定する以外にどうしようもない。
赤の感覚、赤による興奮(欲動)は閉じている。
●とはいえ、「作品」というものはある。マティスの作品からは「マティスの感覚」を感じられるように思うし、セザンヌの作品には「セザンヌの感覚」があるように感じられる。それは結局、わたしが感じたマティスの感覚であり、わたしの感覚に過ぎないとも言える。しかし、わたしがマティスを観ることによって得られる感覚は、マティスを観る前には知らなかった感覚であるとすれば、それが「マティスの感覚」であり得るかもしれないとは、言えないだろうか。閉じられたものであるはずの「マティスの感覚」が伝達された、と。
(わたしが、マティスという「人物」への関心や思い入れから、その作品へ興味を示すとしたら、そこには情動や言語の回路が強く優位に働いていることになるが、そういうこととは無関係に、「マティスの感覚」に掴まれるということがある。作家への興味から作品への関心に導かれる時は、情動の回路が強く働き、作品への興味から作家を発見する時は、感覚の回路が強く作動する、のではないか。)
●わたしがマティスの作品から「マティスの感覚」を感じる。それは基本的に、わたしが散歩の途中に夕日を見て、ある非常に強い感覚的充実を感じることと変わらない。それは、感覚対象と感覚との間の閉じたループとその発熱であり、どこにもつながらない。しかしここにこそ、作品というもののとても重要な何かがあると思う。
(でも例えば、わたしが今見ているこの夕日を、あの人もどこが見ているのだろうかと考える時、そこには感覚と情動との協働が成立している。このような時も、あの人への強い思いが夕日を感傷的に見せる場合―情動から感覚へ―もあれば、夕日のあまりの美しさが忘れていたあの人を思い出させること―感覚から情動へ―もある。夕日のあまりの美しさが、実際には存在しもしない「あの人」をねつ造する、とかだったらすごく面白い。「あの人の存在のリアリティ(情動)」を支えるのが「夕日の美しさ(感覚)」である、というのは、それこそフィクションの原理なのではないか。)
夕日の美しさがただ夕日の美しさとして、どこにも繋がらずに感覚対象―感覚のループとなって、そしてそのループの作動それ自体が欲動の対象(というより、欲動を誘引するもの)となって、脳を発情させ、その発情がまた感覚のループを強化し、激しく振動させるということ。このような感覚的発情の質感こそが、ぼくにとっては何よりも重要なものであるようだ。おそらくそれだけが、ぼくにとって、世界への肯定的な感情の支えとなっている。
(例えば、ホームランバッターが会心のホームランを打った時の手ごたえ―感覚的発情の質感―は、それによってチームに貢献し、チームが勝利することのよろこび、選手としての評価や人気が上がることのよろこび、収入が増えることのよろこび等とは切り離された「別の系列」に属する孤独なよろこびであって、それらとは「別の仕方」で彼が野球選手であること、あるいは彼の生を支えているだろう。作品は、この「手ごたえ」こそを伝えようとするのではないか。)
●そこで、夕日の美しさとマティスの作品との違いは、マティスの作品の向こうにはマティスという存在があり、「マティスの感覚(あるいは「マティスの視点」)」があるということだろう。しかしその時の「マティス」とは、画家の生涯やその苦悩やドラマ、あるいは人物像などとはいったん切り離された、ある感覚の固有性(キャラクター)としてのマティスであろう。
その時、本来コミュニケーションを行わない、閉じたものとしての感覚と欲動が、それ自身として自らを遠くへ投げかけている(他者へ、というより、遠くへ、という感触だ)、ということになるのではないか。わたしが「マティスの感覚」を感じる時、わたしとマティスとがコミュニケーションを行っているというより、わたしが(幾分か)マティスになっている、のではないか。わたしがマティスの作品から「マティスの感覚」を感じている時、わたしはマティスとなってマティスの作品を観ている、のだとすれば、その時、作品はコミュニケーションの装置であるよりは、「視点を転換させる装置」だと言える。わたしは、作品を通じて「他の視点」となり、他の感覚、他の欲動そのものになる、とは言えないか。
本来閉じたものであり、秘められた孤独なものである感覚と欲動が、それ自体として(情動や言語を媒介せずに)、自らを露わにし、他とつながり、響き、繁殖し得る(クオリア問題を超え得る)ということを、「作品」というものが示している、ということは言えないだろうか。
●十二月に撮った写真、その一。