●ここ三日間、ずっと籠って、ずっと小説を書いていた。夏くらいに書き始めて(いや、六月くらいだったかもしれない)、秋にはもう行き詰ってしまって放置していたものに、ようやく手が付けられた。三日ずっとやっていて、原稿用紙に換算するとせいぜい六枚くらいしか進んでいないけど、行き詰っていたところというか、滞りのようなところは抜けられたと思う。半年くらいかかってまだ三十枚に至っていないのだから、三日で六枚というのはすごい進み方だとも言える。
思ったのは、ぼくが書きたいのは「内と外とは区別がつかない」という感じなのではないかということだ(もう一つは、誰からも見られていない世界も「言葉」でなら「誰にも見られていないもの」のまま書き得るのではないか――「見る」のでも「聴く」のでもなくただ「書く」だけならば、書き方の形式によっては「弱測定」であり得るのではないか――、ということなのだが)。
それは、脳と世界は区別がつかない、ということであり、わたしとあなたは区別がつかないということでもある。内側には穴があいていて、それは連続的に外に繋がっていて、外にもまた穴があいていて、連続的に内側につながっている。脳というのは世界にあいた穴であり、その脳のなかにも世界という穴があいている(下の図の、脳は「わたし」に、世界は「あなた」に変換することもできる)。内と外、脳と世界、わたしとあなたは、シームレスに繋がっているが、にもかかわらず、二項的な区別はなくならない。区別があるのにそれはぐすぐずになる。あるいは、連続して継ぎ目などないのに、なぜか区別が生じる。おそらく、この図には書き込めていない「ねじれ(否定とも言えるが、ぼくはそうは言いたくないのだが)」の作用がその間にあるのだろう。




でも、ただこれだけだと、入れ子構造のメタフィクションみたいになってしまう。脳と世界とが、連続的に繋がっているのに区別がなくならないのは、脳は世界のすべてと繋がっているわけではなく、世界もまた、脳のすべてと繋がっているわけではない――脳のなかには、世界にはない領域がきっと生まれてしまう――からだろう。なので、下の図のように、脳のなかには複数の別世界へと通じる複数の穴があいていて、その別世界のそれぞれにもまた、別の脳へと通じる複数の穴があいていると考える。そしてこの赤い線で描かれた経路は、しょっちゅう混線したり、断線したり、新たに生まれたりする、と考える。




ここで、世界5や世界6は、わたし(脳1)からは完全に隔絶された世界と言える。そして、脳2は脳1と同じ世界1を共有しているが「別の穴」であり、だから脳1は世界1のすべてとは同化し得ない。こう描くと、ぼくの感じている感覚にかなり近くなるような気がする。この図は、下のようにも描き換えられる。




そして、時間、空間、物、というのは、わたし(脳1)の中で、異なる穴(世界1、世界2…)たちが関係するときの、関係の形式なのだと考えることができる。あるいは逆に、異なる穴どうしの関係(経路の混線や断絶)こそが、時間や空間や物としてあらわれる、とも言える(例えば、世界1と世界2との非同期性と、脳1のよるその調整が「空間」を生む、と、郡司ペギオの口真似をすることもできる)。ぼくが書きたいのはおそらく、そういう意味での、時間、空間、物なのだと思う。
勿論、ぼくが書きたいのはこのような「図式」そのものではなく、この図式がもっている「リアリティ」の方なのだが。