●「理論と実践」という構えは不毛ではないか。そうではなく、実践的な実践があり、制作的な実践があり、理論的な実践があると考えられる。例えば、(1)自転車に乗れることと、(2)人が乗り得る自転車を作れることと、(3)走っている自転車がなぜ倒れないのかという理由を導きだして記述できることとは、すべて等しく実践であり、しかし、それぞれ別種の実践であろう。
それらの異なる実践は、自転車という媒介=形式=物質という場によって交錯する。しかし(1)は、スケートが出来るとかサーフィンが出来るとかいう別種の運動技能に発展するかもしれず、(2)は、ジャイロスコープをつくるとか彫刻をつくるとかの別の制作に発展するかもしれず、(3)は大砲の軌道の計算や天体の観測などに発展するかもしれないという、別々の流れのなかにある。
これをただ、自転車というフレームだけに限って縦割り的に切り取って他へのひろがりをみないと、あたかも、(3)が(1)のメタ的説明であるかのように(階層構造であるかのように)感じられてしまう。(3)が(1)の上位にあってそれを包摂するかのように、または逆に、(1)こそが実質であり(3)は口先だけの話みたいに、感じられてしまう。そうではなく、もともと別の流れにある別の実践が、「自転車」というメディア(媒介=形式=物質)によって例外的に結びついたと考えた方がいいと追う。
●前までのところと、言っていることの次元が少しずれるけど、ジャンルというのはしばしば、「自転車というフレームに限った見方」として縦割り的に機能する(メディウムスペシフィック的な「メディウム」とは実はこのようなことではないか)。あるいは、文脈という時、(1)から(3)の流れの方だけを想定してしまう。だけど、自転車という媒介=形式=物質は、フレームと流れの両方が重なってできている。フレームは、出来事的、偶発的、歴史的なものとして、複数の流れが束になることで、ある種の創発のようにして生まれる。流れは、それぞれ個別にあってそれ自体として自律し連続する、必然的、発展的、進展的な展開の連鎖や分岐としてあるだろう。
どんなフレームにも複数の流れが流れ込んでいるし、どんな流れにも複数のフレームが重なり合っている。そのどちらか一方を実体のように固定してしまうと、いろんなことが硬直化すると思うし、なにより、窮屈で退屈になる。