●池袋の東京芸術劇場に「自作自演」(岡田利規保坂和志)を観に行った。正直、作家の自作朗読とかに特に興味はないのだけど、編集者との打ち合わせの用事もあって出かけた。でも、朗読とは別の意味で面白かった。
以前、日本文学の「これくらいは常識として読んでいて当たり前」という作品を読むのがめんどくさくて、朗読されたものを聞けば、楽して、さも読んだかのような顔が出来るのではないかという下心から、図書館で朗読のCDを借りてきたことがあるのだけど、それがとんだ見当違いで、人が読んでいるのを聞くと、声や抑揚やリズムばかりを聞いてしまい、よほど集中して聞いていないと内容が入ってこなくて、これだったら字を読む方がずっと楽だと思ったことがあるのだけど、岡田利規の朗読は、ぼんやりと聴いているだけで驚くほど内容がするすると頭に入ってきて、これはおそらく朗読の技術とかではなく、もともとの文章が、人がしゃべるのを聞いて分かり易いように書かれているのだろうと思って、むしろ、読むよりも聞く方が内容がすーっと入ってくるように書かれているのだろうと思った。おそらく、文の構造とかはけっこう複雑なのだろうけど(だから「読む」とけっこう難しい文だったりする)、その複雑さは「聞いて分かり易いように書く」ことの結果としで出てくる複雑さなのではないかと思った。
(質疑応答の時に、自分にとっては語順が重要だというようなことを言っていたので、そこに秘密があるのかもしれない。)
保坂さんは、セシル・テイラーの演奏を大きな音で流して、それに対抗するように大声で朗読した。最初は正直、これはちょっと厳しいのではないかと思ったのだけど、しばらく聞いていると、これはこれでありなのではないかと思えた。保坂さんがだんだん岡本太郎みたいに見えてきた。大声で、早口で、一本調子で読み続けるのだが、そこにだんだん保坂さん独自のリズムがみえてくるように思った。この、がちゃがちゃした感じが保坂さんぽいのか、と。厳密にパフォーマンスとして考えれば、セシル・テイラーの曲の助けなしにこのような読み方が出来ると面白いと思ったのだけど、保坂さんはパフォーマーではないのでそれはさすがに恥ずかしいのだろうし、いきなりそれをやれと言われてもきっと出来ないだろうから(というか、それが出来る必要は別にないのだから)、セシル・テイラーによる助けがあってよかったのではないか。
保坂さんは、低いイスに座って両足を投げ出すような姿勢で朗読していたのだが、実は、直前に舞台から落ちて、右足を切って大量に出血し、左足の指かどこかを骨折したのだと朗読が終わった後に言い、だからこんな姿勢で失礼しました、みたいなことを言って、その場の空気を全部もっていってしまった。結果的に「体を張った芸」みたいな感じになった。そこに保坂和志のスター性みたいなものも感じたのだった。