●『偶然の科学』(ダンカン・ワッツ)は面白かった。これはたんに科学の最新の成果を素人にも分かり易く紹介するというような本ではなく、物理学から社会学へ転身した著者による挑発的とも言える「社会科学は何をすべきか」という宣言のような本だと思う。ある意味、複雑ネットワーク理論を取り入れた「純粋理性批判」みたいな感じ。
ここに書いてあるのは、簡単に言えば、判断に常識を持ち込むな、未来予測は原理的に当たらない、歴史からは学べない、というようなことで、この「結論」だけみると、ごく「常識的な挑発」でしかないようにもみえるけど、この結論を導くというか説明する過程にとても説得力がある。
例えば、物事には単純な出来事と複雑な出来事があって、単純な出来事は科学によってほぼ完全に予測できる。量子の振る舞いについては量子力学が完璧に予測する。火星探査船の軌道の制御も予測可能だ。しかし、複雑な出来事は、複数の偶発的な要素が絡むので原理的に予測ができない(ぼくの一昨日の日記はこの部分で間違えていたわけだ)。社会的な出来事は複雑な出来事であり、それは一週間後の天気予報が当たらないのと同じように予測できない、と。サイコロを振って「一」が出る確率が六分の一であることは正確に分かっているとしても、次にサイコロを振った時に「一」が出るか出ないかは誰にも分からない。社会の出来事はサイコロ的要素がいくつも重なって関係してくるので、どんなに厳密な予想を立てても「原理的」に当たらないのだ、と(天気の長期予報は観測の精度やデータ量にかかわりなく原理的に不確かなのだという複雑系によってもたらされた認識のように)。せいせいが、その出来事が起こる確率を予想するくらいしか出来ない。そしてその確率予想の精度は、実は専門家も素人も単純なコンピュータアルゴリズムも、ほとんど同じくらいでしかない。専門家の予想は素人と同程度しか当たらない。
(ただし、莫大な資金を使って恒常的に繰り返し行われるような投機などの場合、その小数点以下いくつかという微小な精度の違いが勝ち負けを決めるから細かな違いが重要なのだが、ほとんどの場合、例えばベストセラーやヒット映画の予測とか優勝チームの予想などは、玄人も素人も同じくらい当たらない。)
それは因果関係という物語(常識)へ根本的疑問をつきつける。ある人がポイ捨てしたタバコの吸い殻が大規模な森林火災にまで発展するには、多くの偶然が重なる必要がある。たまたま雨が何週間も降ってなかったとか、その日に限って強い風が吹いたとか、管理人が寝坊して巡回時間が一時間遅れたとか、自然にはごく稀にしか起こらない大気中の化学変化のようなことが起こったとか、それらの出来事が一つでも起こらなければ、火は大して広がらず、自然に消えただろうということになる。だとするならば、火災の「原因」を男のポイ捨てとすることは出来ないのではないか。偶然に重なったそれらすべての出来事が同等の重さで原因なのではないか。ところが我々の常識は、受け入れやすい物語を因果関係として受け入れ、ポイ捨て→火災を「事実」とみなす。そしてそのような因果関係に関する常識が、結果として多くの間違った判断を次々に生み出してしまうのだ、と。いわゆる「科学」でさえもこのような常識的判断に囚われてしまっている。
それは逆からみれば、例えばアップルの目覚ましい業績は本当にジョフズによってもたらされたもの(因果関係がある)と言っていいのか(アップルには優秀な人材が何万人といるのに)、というような疑問に繋がる。我々は企業のような複雑な組織、そして商品のヒットのような高い偶発性を含む複雑な社会的現象の原因を、一握りの「特別な人々」(カリスマやインフルエンサー)に帰するような考え方を好むが、それは出来事が複雑すぎてその全体を通してみることが不可能だからということから生まれた「常識(物語)」にすぎず、実は彼はたまたまいい時期にそのポストに就いたというだけかもしれない。実際、アイフォンはベータカムと同じくらいに優れた商品であり、だとすれば、ベータカムと同じ結果になった可能性も十分あり得る。アイフォンがベータカムにならなかった理由は「偶然」でしかないと著者はいう(それはすべての商品が等しくヒットする可能性があるということではなく、優れたいくつかの商品のうちの「どれ」が成功するのかが、偶然であるということだ)。つまり、「なぜ○○は××なのか」という一見合理的にみえる話は、ほぼすべて後付けの説明でしかないのだ、と。
ここに「歴史からは学べない」ということが出てくる。科学では再現性が重要であり、同じ条件で何度も何度も試してみることによって何かを発見し、判断を下す。あるいは、プロスポーツ選手の実力は、同じ条件の試合を多数行うことで判断できる。しかし歴史では同じ条件は「一回」しか起こらない。だから、我々は、起こった出来事とその結果から遡行して、その過程を評価し、判断してしまう。しかし、歴史から何かを学ぶには、起こってしまったことと同等に、起こる可能性があったが起こらなかった無数の(ほとんど無限の)出来事を検討してそれと比較する必要がある。しかしそれは不可能だ。
まず、「その時」の成功(あるいは失敗)は「その時の条件」に依存するが、「その時」と同じ状況(現実的な条件のすべて)は歴史上「一回」しか起こらないから、それ以外の場合には使えない。しかも、その時の成功も、成功する確率が八割くらいある優秀なプランだから成功したのか、そもそも数パーセントの確率しかない無茶なプランなのにたまたま成功してしまっただけなのかは、同じ状況で複数回テストしてみないと何ともいえない。後者の理由で、その時の成功例が、その一回限りの場合でさえ「最適解」であったとは保証されなくなる。ここで著者は、歴史的な「ある過程」への判断や評価を、それによってもたらされた「結果」と分けて考えられるような手法をみつけなければならないと言う。
この本を貫いているのは、「結果」など要するに「偶然」でしかないのに、しかもその「結果」もどのようなスパンをとるかによって意味がかわるのに(会社の業績が良い時には経営者の手腕は称賛され、同じ人、同じ手法でも、悪くなると叩かれる)、結果こそが何かを評価する基準(根拠)であるかのように機能する常識(物語)に対する批判であるように思う。だが勿論、何でも偶然だから何も分からないと言っているのではない。分かることと分からないことをはっきりさせようとしている。例えば、結果として結果が出せなかった過程であっても、それが「はじめから無茶なプラン」だったのか、「不測の事態が無ければ成功していただろう優れたプラン」だったのかを、「結果」にも「常識(納得しやすい物語)」にとらわれずに、合理的に評価しなければならないということを言っている。よりよい結果を目指すために出来ることは、それくらいのことだろう、と。
あと、未来予測は原理的に出来ない(結果は偶然が左右する)にも関わらず、例えばゲーム理論などをもちだして、あたかも確実にそれが出来るかのように振る舞う人への批判(個人的には、カーツワイルは「胡散臭さ」を隠さないからいいんじゃないかと思うけど…、カーツワイルの根拠はたんに「グラフの曲がり方」なのだし…、でもこの著者とは気が合わなそう…)。著者は、未来の予測は無理なのだから、現在の予測(観測と対応)にこそ力を入れるべきだと書いている。まあこれも「結果としては」常識的な落としどころなのだけど、過程こそが面白い。