●『BEATLESS』の最初の方だけを少し読んだのだけど、それで、昨日、人とした話を少し思い出した。例えば、今、初音ミクがすごく流行っているけど、もし、アメリカなどから、リアルな3Dのビジュアルと圧倒的な歌唱力をもったボカロが出てきたとしたら多くの人はどちらを選ぶのか、みたいな話が出た。リアルさが中途半端な場合は、おそらく人はキャラ的なものの方を選ぶ。しかしそのリアルさがある閾値を超える時、人はリアルなものの方へ雪崩込むのではないか、と。
ぼくはゲームのことはまったく知らないのだけど、現在の任天堂の凋落というのもまさにそれなのだと言う。今、ゲームは、リアルなビジュアルと徹底して作り込まれた世界観があって、そのなかを探索するみたいなものばかりになって、任天堂的な、ボタンを押したらマリオがピョーンと跳ねるみたいなシンプルな快楽はほとんどなくなってしまっているという。
あるいは、ぼくなどはデジカメのことを考える。デジカメの解像度がイマイチだった頃は、フィルムカメラの画質の方が自然で、美的にも優れているように感じられたけど、デジカメの画質が一定の閾値を超えた途端に、そちらの方が自然に感じられるようになり、フィルカメラの画質を古いもの(あるいは、フィルムカメラという「特異なキャラクター」をもったもの)と感じてしまうようになった。
とはいえ、ポラロイドやトイカメラへの愛着のような感覚がなくなるわけではない(しかしそれは、カメラというモノに対する愛着なのか、それによって得られる画質への愛着なのか、区別はつけられず、そのどちらもがキャラなのだろう、対して、デジカメでは、カメラというモノや写真というメディウムに関するフェティッシュが「画像」の解像度によって解体されてしまうような感触がある、とすると、近代的なメディウムスペシフィックとはメディウムの「キャラ化」であったのか?)。完成度の高い圧倒的な美人に対する感嘆と、マスコットキャラや顔文字のような単純な記号から感情を感じ取り、そこに愛着を感じることとは、おそらく別の回路なのだろうと思う。あるいは日本のアニメのように、平面的で記号的なキャラクターと、ビジュアルや動きの高解像度、物語の複雑さとが両立している形もあり得る。キャラ的なものが必ずしも高い解像度と矛盾するわけでもないだろう。
だけど、一方に、没入的臨場感の追究としてのリアリズムがあり、もう一方に、感情移入的な誘引力としてのキャラの力というのがあるというように分けることはできると思う。前者を「リアリズム」とするのは、それが現実に似せたものであるからではなく、その感覚的な強さや精度によって「現実」の構成を更新してしまうからだ(デジカメの方を「自然」と感じてしまうように)。ざっくり言えば、フィクションにおいて、世界(感覚)に入り込むのか、感情(心)に入り込むのかの違いと言えるかもしれない。
(近代芸術はそのどちらからも批評的に距離をとって、感覚の抽象性の次元をつくろうとするわけだとぼくは思うけど、それについてはここでは置いておく。)
現代の日本の成功したコンテンツ、例えばアニメ、アイドル、ゆるキャラ、ポエム等は、ほとんどが後者の力によると思われる。しかしそれらの力は、現在の圧倒的成功から感じられるほどに盤石なものではないように思われる。リアリズムの逆襲(揺り戻し)があった場合――それはおそらくアメリカからやってくるだろう――それと拮抗し得る力をもつのはアニメくらいではないかと思う。勿論、キャラ的なものが完全にすたれるということはあり得ないと思うけど、それは自らを主張するというよりむしろ、自然な背景のようなものになるのではないか。
進撃の巨人』という作品がある。これはぼくの主観であって別の感じ方をする人もいるかもしれないけど、ぼくには「進撃…」はキャラが弱いというか、あまり立っていないように思われる。そしてそれは、この作品の欠点ではなく必然であるように感じる(特徴的なのは、マスコット的なキャラが一つも出てこないことだ、いや、巨人がマスコットなのかもしれないけど…)。この作品は、キャラに対して(あるいは、キャラをインターフェイスとして)感情移入することで作品に誘引されるというのとは違う形式をもっているように思う。この作品からエレンやミカサだけを取り出して二次創作しても、あまり面白いことにはならない気がする。前景としてのキャラよりも、不定形な背景――巨人とか――の方が強いというか。そういう作品がこれだけ成功するというところに、キャラとは違う何かが動きだしている気配のようなものを感じる。
(今、ふと思ったのだが、「進撃…」のキャラの立たなさと、現在のアイドルのびっくりするくらいの凡庸さとは、どこかで繋がっているのだろうか…。グループから抜けてしまえば、もはやその人は他の誰かと見分けがつかなくなってしまう…。グループという狭いフレームの中だからこそ、キャラ-固有性を保つことが出来る。)
BEATLESS』もまた、キャラの弱い小説だと思う。しかしこちらは、アニメ的な展開が意識されていたりして、あきらかにキャラを立てようとして立っていないので(妹キャラの完成度が低すぎる、とか)、それが欠点と言えるかもしれない。だけどそのことは一方で、ここで問題になっている「かたち」や「アナログハック」という考え(これは「フィクション」と言い換えてもいいように思う)が、たんにキャラ的な(あるいは「対象a」的な、と言ってもいいかもしれない)ものだけに納まらない、もっと広く複雑な射程(リアリズム的でもあり、近代芸術的でもあるものを含む)をもっていることを示してもいると思った。