●昨日からのつづき。『ラッセルのパラドクス』(三浦俊彦)で描かれるラッセルの思想は下のように要約できる。
「自分自身の要素ではない集合、の集合」という自身が発見したパラドクスを解消するために「タイプ理論」をあみだし、それを徹底することで日常語の曖昧さを分析する「記述理論」へと発展し、その過程で、文のなかに配置されることでようやく意味をもつ「不完全記号」である確定記述と、それ自身だけで真に主語となり得る個物を示す「固有名」とを峻別し、しかし実は固有名と呼ばれるものも本当はそうではなく、真の固有名たり得る「論理的固有名」は「これ」「あれ」といった代名詞によって指示される直接感覚の対象だけであるというところにまで行き、そうであれば語が示す意味はそれを用いる一人一人それぞれ違っている、という話になり、しかしそれを組み立てる論理の形式のみが普遍であり得るということになり、とはいえ、そのように徹底して「個物」を尊重するかのような論の展開が行き着くところは、最終的には、世界の構成要素は普遍のみで、個物とはそれがもつ「属性」の束でしかないという、ということだった、と。
≪(…)よく考えてみると、論理的固有名の指示対象である紛れもない原子として残されていた「これ」なるものも、決して直知の対象ではないことがわかる。直知の対象は、個物そのものであることは決してなく、常に、特定の色だったり、音だったり、温感だったりするだけだ。すると、論理的固有名という概念そのものすら怪しくなってくる。論理的原子として認められるものの中には、個体なるものは入ってこられず、基本的属性としての普遍のみがのこるのではないか。≫
●この本によると、例えば「この犬は吠える」という文(命題)の意味は、「この犬」という個物は「吠える」という属性をもつものの集合の要素である、ということになる。あるいは、「この」がとれて「犬は吠える」という文になると、「犬」と「吠える」のどちらもが個物ではなく属性を表わす語となることから、タイプ理論としては意味のない間違った文であり、この文の意味を正確に記すと、「いかなるxについても、もしxが犬であるならば、xは吠えるものである」となる。つまり、犬という集合(属性)と、吠えるものという集合(属性)があり、犬という集合に属する個物xは、すべて同時に吠えるものという集合にも属する、という意味になる。「xは赤い」は、「赤いという属性をもつものの集合のなかに個物Xがある」ということになる。
ここで違和感があるとすれば、「吠える」という時の動く感じ、「赤い」という時の、赤くない状態から赤がたちあがってくる感じが抜けてしまうのではないかということだ。吠えていない状態から吠えている状態へ、赤くない状態から赤い状態へと移ってゆく感じが、集合という形で考えるとうまく掴めない感じになる。動くとか移りゆくとかいう感じは、「個物」というものを想定しないと上手く掴めない気がする。吠えていないxがあり、それが、吠えているxに移行する。このようなイメージは、既に時間と空間とを前提にしてしまっているのだが、普遍的属性としての論理的原子が、ただあるだけでなく、そこから(たとえ幻だとしても)空間や「わたし」が立ち上がってしまうということが起り、それらを立ち上げる原理としての「論理」があるとすれば、それらを動かす何かがあるのではないかという感じが、あまり出てこない感じがする。
ただ、この感じはぼくがたんに数学に疎いというだけのことかもしれない。集合が常に関数とかかわり、関数が集合に還元できるのだとすれば、「動く」「移りゆく」という感じは関数によって表現されるのかもしれない。