●もうちょっとつづき。例えば、吠えていない状態のxが、次の瞬間に吠えている状態のxになったとき、そこに「吠える」という動きが生まれる、とする。しかし、吠えていない状態のxの隣に、吠えている状態のyがいる、とすればそこに「動く」感じはない。この二つはどう違うのか。
まず、時間的移動と空間的並置の違い。そして、個物x→xという連続性と、個物x→yという非連続性の違い。だが、リアルに存在するものが、論理的原子であるセンシビリアと、その順序や配列を決める論理形式だけであるとすれば(論理的に有り得るものはすべて存在する、とすれば)、この違いには意味がなくなる。既に全てあるのだから、何かが別の何かに変化などする必要はない(「変化」という概念の入る余地はない)。
「動き」というものは時間に依存するもので、もし「時間は存在しない」とすれば、「動き」も存在しないのだろうか。そうではなくて、「動き」こそが「時間」に先行するもので、何かしらの形でこの世界に「動き」というものがあるからこそ、我々は「時間」という幻を設定しなければならなくなる、ということは言えないのか。
吠えていない状態のxの隣に、吠えている状態のyがいるという状況を前にした「わたし」が、まず吠えていないxに注目して、次に、視線を移動させて吠えているyに注目するとしたら、その時、「動いて」いるのは「わたしの視線」と言えるが、同時に、「わたしの視界によって切り取られた世界」も動いている。全く動きのない風景をトラベリングするカメラが捉えた映像を観る時、「動いている」のは、カメラ(視点)なのか、フレームのなかの世界そのものなのか。
宇宙のなかの任意のある一点を指定して、それを「ここ」とする。それは、そこからパースペクティブが生まれる視点-起点であり、限定であり、原-わたしである。そのような点が設定されなければ「動き」は生まれない。では、この原点(「ここ」そのもの)が移動するという「動き」をイメージすることはできるのだろうか。
吠えていない状態のxが、次の瞬間に吠えている状態のxになるというとき、まず、「吠えていない」が「吠えている」に変化するということがあり、もう一方に、xがxでありつづける(「ここ」が変化しない)ということがある。変化するものと変化しないものとがある時「動き」があるとする。では、変化するものと変化しないものを逆にすることはできないか。例えば、吠えていないxが、吠えていないyへ変化するとき(xがyへと変化し、「吠えていない」は保存されるとき)も、「動き」があると言えるのか。というか、このような状況を「動き」としてイメージできるのか(「吠えていない」の方を「ここ」とすることはできるのか)。あるいは、何故、我々の常識としての時間と空間(というか、「論理形式」)は、このような「動き」を認めていないのだろうか。
●SFなどでみられる「空間転送」は、オリジナルがそのままA地点からB地点へと運ばれるのではなく、A地点のオリジナルは完全に消失し、B地点においてオリジナルと完璧に同じ組成をもつ物質が再構成されるということだという。例えばぼくが転送されるとしたら、ここにいるぼくは完全に消えてしまって、別の場所で新たに、身体的にも精神的にもまったく同一であるぼくが一から再構成されるということだ。A地点のぼくと、B地点のぼくは、物質的には非連続だが、決して区別がつかない(原理的に区別のつけようがない)という意味では連続している。その時起こっていることは、「吠えていないxが、吠えていないyへ変化する」ということとちょっと近いのではないか。非連続的かつ同一であるぼくが、別の場所で新たに生成される。では、ここに「動き」を認められるのだろうか。
(そして、このような出来事が、絵空事や思考実験ではなく、技術的に実現出来てしまう日がそう遠くない未来にやってくる、としたら、我々はそれを「同じもの」として受け入れることができるのか?)