●「まど☆マギ」の劇場版(叛逆の物語)をDVDで観た。ぼくは「まど☆マギ」本編については否定的だけど、これは割と面白かった。作品として充実しているというより「お話」の落としどころとして納得できた、という感じ。
テレビシリーズで人気のアニメが映画になると大抵、最初の三十分くらいは本編のファンのためのサービスシーンという感じで、主要キャラクターたちがわいわい騒いでいるだけの顔見世興行的な展開となる傾向があるのだけど、この作品ではそれを利用して、顔見世興行みたいな効果だけが派手でヌルい世界として「信用ならない世界」を描いた上で、その偽の世界の構造(深層)が探られるという展開になっている。ぼくが「まど☆マギ」本編で最も嫌なところは、安っぽいドラマで人の感情を過剰に波立てようとする手つきで、それをすごく下品だと感じてしまったのだけど、劇場版では、物語がまず世界の構造を探求するという形で進むので(そしておそらく、限られた時間で話を進めなくてはいけないので)、安いドラマが入り込む余地があまりないところがいいのだと思う。この作品(物語)が示すのは、感情ではなく世界の構造だということが最初からはっきり見えている。だからぼくもあまり抵抗を感じないで観ることができた。
二時間弱のこの映画の最初の一時間半くらいは、要するに「ビューティフル・ドリーマー」なのだと思う(閉じられた世界が崩壊する時、お菓子の魔女みたいな変なキャラがラッパを吹いていたりしたが、これは夢邪鬼の持っていたラッパではないか)。それは、パクリだとか新鮮味がないということではなく、現代的に更新された「ビューティフル・ドリーマー」としてとても良くできていて面白いと感じながら観ていた。そこで終わったとしてもそれなりに納得しただろうと思う。
だけどさらに最後の三十分でもう一ひねりあって、その一ひねりによって、この映画が、現代的に更新された「ビューティフル・ドリーマー」というだけではなく「まど☆マギ」という作品であり、その結末なのだという刻印がはっきりと押される。ぼくが感じる虚淵作品のもう一つの嫌なところは、薄っぺらな逆説をさもすごいことであるかのように大仰に提示する、という点なのだが、しかしここで示された逆説は、「まど☆マギ」という作品の行き着く地点としてはアリかなあと思った。「まど☆マギ」の世界で「少女」という形象は、「(けだかい)魔法少女」であるか「(堕落した)魔女」であるかどちらかでしかありえない(その相転移によってエネルギーを得るQべえとは、そのような少女というイメージに萌え、イメージを使い捨てる観客そのものだろう)。しかしここでほむらは、そのどちらでもない状態(悪魔)であることを創造したといえる。作品(あるいは観客)が押しつけてくる図式をキャラが超えた、とも言える。まどかが「神」になる本編の最終話はあまり納得できなかったけど、これならばなるほどと思える、と。
(まどかは、全く内実のない空虚なキャラクターであることによって、すべてを受け入れ、あるいは宇宙のすべてでありえた。まどかの特別な力は誰よりも空っぽであることだ。だが、ほむらは、そのようなすべてであるようなまどかに受け入れられ、自らも空となって救われること――円環の理――を拒否し、内実はなくても、限定された「形」としてある「まどか」を必要とした。閉鎖空間で様々なキャラが復活するこの作品は、「形(と名)」の明滅についての映画だといえる。自らキャラであるほむらが、遍在する形のない神ではなく、偶像としての「まどか」というキャラを、自分自身のために必要とした。ほむらが、ほむらという形を保つためには、愛の対象としての「まどか」に、まどかと名付けられる形があることが必要である。このような、形と限定への執着が、ここでは「愛」と呼ばれている。まどかが、形の解放によって宇宙を書き換えたとすれば、ほむらは、そこに再び形への執着を持ち込もうとする。)
(ただ、クレジットタイトルが終わった後に、どうとでも解釈できるような意味ありげな細部がちょこちょこっと付け加えられていて、もしかしたらまだこの続きをつくろうという下心があるのではないか、という嫌な予感がした。ぼくはこの作品を「完結編」として面白いと思ったのだが、つくっている側の思惑としては次につなげるためのブリッジという位置付けなのかもしれない。)