●『西田幾多郎 〈絶対無〉とは何か』(永井均)から、昨日の最後からのつづきを、もうちょっと引用したい。この部分はラカンみたい。
≪さて、そうなると私は、もはや無の場所ではなく、別の無の場所に登場しうる存在者(有る物)の一つとなる。これは私の死である、と同時に私の誕生である。なぜなら、他者の無の場所に登場できることによって、私は、私自身の(生の)無の場所に、一人の人間(個人)として、言い換えれば客観的な固有名を持った一つの個物として、登場できるようになるからである。そのことによって、私も汝も彼となる。私と汝が彼である場所は、さらに第三の者(the third person=第三人称)の場所だが、その第三者はすでにして彼なのだから、ここに抽象的な客観的な場所が生まれる。≫
≪このことによってこそ、「無の場所」は「無の場所」という一般的な表現で語られるようになるし、それよりも何よりも、はじめて私は私を「私」という語で捉えることができるようになる。すなわち、すべての人が自分自身を捉えるときに使う「私」という語を、私にもまた使えるようになる。つまり、私は私を、「私」という(一般に自己言及者が自己に言及するときにおこなう)再帰的・反省的な方式(つまりde se方式)で捉えることができるようになるということだ。≫