●早稲田で会合があった後、終電に間に合うように帰ったのだが、東西線のなかでちょうど目の前の席が一つ空いたので座ったら、ぼんやりとした考え事がはじまってしまって(ウィトゲンシュタイン論理哲学論考」にある「写像形式そのものは写像されない」について考えていた)、大手町を通りすぎて日本橋まで行ってしまい(竹橋に着くところで、あ、あともう一駅だ、と思ったところから、意識と現実との対応が切れていて、次に現実に戻ってきたのが日本橋に着いた時だった)、やばいと思ってあわてて降りたら、運よくホームの逆側にすぐに反対方向への電車が来てくれて、それで大手町まで戻り、東京駅まで走ったら、なんとかギリギリ、東海道線の終電に間に合った。
以下、「論理哲学論考」より。
≪四・一二
命題は、現実のすべてを描き出すことができるが、現実を描き出すために現実と共有しなければなないものを、すなわち論理形式を描き出すことはできない。
論理形式を描き出すことができるためには、命題とともに論理の外に、すなわち世界の外に立ちうるのでなければならないだろう。
四・一二一
命題は論理形式を描き出すことはできない。論理形式は命題のうちに自らを映し出す。
言語のうちに映し出されるものを、言語が描き出すことはできない。
言語の内に自らを表現するものを、我々が言語によって表現することはできない。
命題は、現実の論理形式を示す。≫