●「渡辺篤史の建もの探訪」で、柄沢祐輔さんが設計した清水高志さんの家が取り上げられているのを観た。さすがに、毎週どこかの住宅を撮っているスタッフだけあって、かなり上手くこの空間を捉え、構成しているように思った(主観カメラによって迷路のような動線を丁寧に追っていたりとか)。ただ、渡辺さんと清水さんとが常に一緒に移動していたのだけど、二人が別々の場所にいるところを、また別の場所のカメラから撮ったカットがいくつかあると、もっとこの空間の面白さが出たのではないかとも思った。例えば、渡辺さんが最後のコメントをしている時に、別の部屋で清水さんが何かしていて、それを一つのフレームが捉えているようなカットがあったりすると、この建築の万華鏡的な性格が強く出て、さらに「おおーっ」という感じなったのではないか、と思った。
(とはいえ、最後のコメントは「渡辺篤史の見せ場」だから、余計なものは入れられないのかもしれない。他の機会に同様のカットを入れるのでも勿論いいと思う。)
http://www.tv-asahi.co.jp/tatemono/backnumber/#!/2014/16
●「ART CRITIQUE n. 04」の目次が発表されていて、それを見ていて気になったのが「テレンス・マリックがバンジー・ジャンプする」(西田博至)という批評のタイトルで、この「バンジー・ジャンプする」って、あの、キム・デスン監督の、イ・ビョンホンが出ている『バンジー・ジャンプする』のことなのだろうか。そうだとすると、テレンス・マリックとあの映画を並べて考えるというのは、えーっ、という意外性と、そういわれてみれば、なるほど、ありかも、という納得感の両方があって、「そうくるのか」「それは一体どうなっているのか」という(手術台の上のこうもり傘とミシン、みたいな感じの)興味が生まれる。いや、もしかしたら全然関係ないのかもしれないけど。
http://art-critique.info/post/82885551544/art-critique-n-04
『バンジー・ジャンプする』は、生まれ変わりを主題とする恋愛映画なのだけど、大映ドラマが甘っちょろく感じられてしまうくらい壮絶なトンデモ展開で、しかもそれを、笑いを期待することなくとことんベタにやり切っていて、ちょっと驚くべき作品になっている。
あらゆることがらが兆候であり、世界のどんな些細な細部にも意味があり、別の何かとの意味的繋がりがあり、「裏(顕在化しているものとは別の隠された真実)」がある、という世界観は、ヌルい神秘主義というか、ニューエイジ思想的なもので、その感じは例えばシャマランに通じるし、あるいはピンチョンにも通じる。それはいわば疑似科学的誇大妄想の世界であり、端的に「間違っている」とも言えると思うのだが、その「間違ったやり方」を徹底しつつ世界を構築してゆく時、そこに、それを簡単に受け入れるわけにはいかないことは重々承知しているものの、そう言って済ますことの出来ない、無視しがたい強いリアリティがどうしても発生してしまう。
(ただ、例えば、主人公の教え子の男子高校生が17年前に死んだ恋人――女性――の生まれ変わりだった、という展開に、ぼくなどは「ええーっ」となって驚いてしまうのだけど、これをBL的なものとして腐女子目線で見るならば、別に驚くような展開ではない、BL的な欲望に忠実なだけだ、と言えてしまうかもしれない、という気もするのだけど。苦悩するイ・ビョンホン萌え、とか、ヨ・ヒョンス攻めのイ・ビョンホン受け、みたいにして観れば、別に普通と言えてしまうのかも。)
●ここまで書いて、『バンジー・ジャンプする』で検索してみたら、この映画を観てベタに感動している感想が沢山見つかって、そのことに(この作品そのもの以上に)驚いてしまった。これを観て(抵抗なしに)素直に感動してしまうのは、いくらなんでも、かなりヤバいことだと思う。
しかし、そのようなヤバさ、いかがわしさを排除しない(例えば「これはネタです(笑)」という言い訳を間に置かない)というところにこそ、この作品の危険な、いわば「間違った面白さ(面白いけどその面白さは間違っている、ということではなく、間違っているが、その間違い方それ自体が抗いがたく面白い、という感触)」があると思う。ぼくはこの感じ(面白さの誘惑)を否定できない。
●なので、この映画とテレンス・マリックとを結び付けて論じているのだろうか、と思って興味を持った。本がまだ出ていないので、まったく見当はずれのことを勝手に妄想しているだけかもしれない(テレンス・マリックの新作もまだ観られてないので、『トゥ・ザ・ワンダー』が何かしらの形でバンジー・ジャンプと関係があるだけ、とかかもしれない)。