●両親と妹と、弟夫婦の家にお邪魔する(弟はアメリカに単身赴任中だが、奥さんとご両親とお姉さんがいる)。長男(三歳)と次男(一歳)の誕生日とこどもの日のお祝いの会。そこにアメリカにいる弟がスカイプで参加する(アメリカは土曜日の夜中)。スマフォのすごさを実感し、未来世界だ、と思った。
●長男が画用紙にクレヨンでぐしゃぐしゃっと何かを描いている。「しんかんせん、しんかんせん」と言ってクレヨンをこちらに差し出すので、新幹線を描いてあげると、「しんかんせん、しんかんせん」と言いながら、それをぐしゃぐしゃっとした線で消すように塗りつぶしてゆく。「パパ、ママ、ユウキ」と言うので、パパとママと長男と、そして次男も描いてあげると、また、「パパ、ママ、ユウキ」と言いながら、それをぐしゃぐしゃっと(一人ずつ)塗りつぶしてゆく。「くまさん、くまさん」「スポーツカー、スポーツカー」「アンパンマンアンパンマン」「レモン、レモン」「カエルさん、カエルさん」など、それを繰り返す。イメージを否定しようとしているようにもみえるけど、トレースしようとしているようにもみえる。
NHKの「サイエンスゼロ」が面白かった。最近のこの番組は「攻め」ている感じ。超能力特集なのだけど、最初にやっていた「透視」の話は、まだよくある話でどうということはないのだけど、乱数発生機(0/1を、ランダムに、しかも等確率で発生させる装置)の「確率」を人間の集団的な感情の盛り上がりが乱すという話はすごく面白い。ここで「感情」によって変化させられているものは何なのかと考えてみると、それは純粋な「確率」そのものということになるのではないか。それは、物としてあるスプーンを曲げるというような分かり易い話ではない。
最近の科学の解説書を読んでいて強く感じられるのは、この世界の「実在」というものは「確率」そのものとしてあって、我々が実在すると感じている個々の事例や事物は、実は実在としての確率から投射された「影」のようなものでしかないのではないかという感覚だ。個々の事例が先にあって、それらを集計し、統計的な操作を加えることで、確率という抽象的なものが得られる、というのではなく、確率こそが先にあり、我々はその効果でしかなく、集計および統計という手法を使うことによってようやく、(確率という)実在の隅っこに触れることができる、ということのではないか、と。
いずれにしろ、確率という概念や、統計という手法を使えなければ、この世界について何も分からないのではないかという感じはすごくする。
(仮に、確率こそが実在であるとして、しかしだとすれば、実在としての確率の「効果」でしかないはずの「感情」が、今度は逆に実在としての確率を動かす――乱す――という相互作用があるというのも不思議で、面白い。心身問題というのは、心と物の間にあるのではなく、感情と確率の間にある、ということになるのかも。あるいは、個が確率の効果でしかないとしても、個というものは確率には還元できず――確率→個という方向はスムーズに移行できても、逆の、個→確率という方向にはスムーズに移行できない――その還元できないという事実のことを「こころ」と呼ぶ、ということなのだろうか。)