●昨日の「サイエンスゼロ」の話を、もう少し考える。まず何より、素朴に「へーっ」と驚いたのが、超能力が題材なのに、最後には確率とか統計とか平均を取るとかのデータ処理を経由しなければ理解出来ない話になっていったことで、もう本当に、確率や統計に関して最低限のことだけでも勉強しとかないと、素朴に、眼に見えて手で触れるものを見ているだけでは、この世界の面白そうなことが分からなくなってしまうのだなあと感じたのだった。
(それはもちろん、眼で見えて手で触れるものを否定しているわけではなく、それはリアリティの一方として依然として重要ではあっても、それだけでは足りないというとだ。)
要するに「面白い」ポイントは、超能力という表象が、スプーン曲げや透視といった、眼に見える「物」を媒介として発現するものから、「量子論」や「確率」と言った、計算やデータ処理を経由することではじめて形になる、「新たな媒介」を通して発現するものになった、というところが新鮮だったということ。とはいえ、「いかがわしさ」そのものはあまり変わらないかもしれない。
●番組での話はあくまで、精神と量子との間に「なんか妙な対応関係があるっぽい感じなんですけど…(とはいうものの、にわかには信じがたいよね、うーん…)」というくらいの話で、別に何か決定的なことが分かったという話は一切でていなかったと思う(その辺りは、すごく気を使った言い回しで表現されていたと思う)。だからあの話を短絡的に、精神が物理に影響を与えることが分かったのだ、という風に受けとるのはまったく間違いだし(そもそも「感情の昂まり」というものがどういうことを指すのか定義できてないし)、逆に、オカルトだとか言って怒ってみたりするのも、過剰すぎる反応だと思う(ぼくはどうしても「疑似科学許せない潔癖症」みたいな人が好きになれない)。ここらへんに、何からの追究すべき問題がありそうだ、というくらいの話で、この話が、新しい事実の解明に繋がるのか、それとも、そういや一時そんな話もあったよねー、ハハハという笑い話になるのかは、現時点ではきっと誰も分からないし、だからこそ怪しくて面白い。問題がありそうだということを提示することは、それを解決することとは異なるはずで、このようなグレーな「怪しさ」のなかにこそ、実験性や創造性を発揮する余地があり、追及すべきものを見つけるきっかけがあるのではないかとぼくは思うし、いかがわしさのリアリティがあると思うのだけど。
つまり、簡単に肯定するのも間違いだし、かと言って否定するのも間違いだという「ひっかかる」もののなかから、新たなものに繋がるきっかけのような何かを見つけることができることもあるんじゃないか、という話だ。勿論、ないかもしれない。
●精神的なもの(あるいは精神的活動に伴って分泌される物理的な何か)が物質に対して何らかの影響を及ぼすかもしれないという話は、よくある話だし、そのことを「科学的」に解明しようという行為が面白いことだとはぼくには思えない。別にそれが科学の領域である必要はない。ただ、ここで面白いのは「確率」という概念が出てくるところだと思う。
一方に科学的な再現性というものがあって、一定の正統な手続きを踏めば必ず同様の結果が得られるということになる。もう一方で、経験的な現実は、様々な要素が絡まっているから、正統な手続きを踏んで同じ行為をしたとしても同様の結果が得られるとは限らない。この噛みあわない二つの間に確率というものを置くことが出来るのではないか。正統なサイコロを、正統なやりかたで振れば、誰に対してもまったく平等に必ずどの目も六分の一の確率で出るこが分かっています。しかし、あなたが次に振るサイコロの目を予測することは誰も出来ません、と。
しかし、「わたし」が知りたいのは、「わたしが次に振るサイコロの目」であり、それを知るためにはオカルトの領域が必要になる(だからオカルトは決してなくならないと思うし、なくならなくていいと思う)。だけど、もし「わたし」が望んでいる目が「一」だとして、六分の一の確率で「一」の出るサイコロと、細工がしてあって、「一」が五分の一の確率で出るサイコロがあったとして、その情報を事前に知っていれば、後者のサイコロを選んで振るだろう。もちろん、前者を選んでも「一」が出るかもしれないし、後者を選んでも出ないかもしれない。だから人生が一度きりでチャンスも一度きりだとすれば、経験の一回性は科学の再現性(確率の計算)によって解消することはできないが、しかし後者を選ぶ方が有利なのは間違いがなく、そこには、双方の少なくはない歩み寄りがあると言える。明日は雨ですとは言えないとしても、雨の確率が七十パーセントですとは言える、とか、タバコを吸うことで肺がんのリスクが何%上がると言える、とか。
しかしそもそも、わたしが選んだ後者のサイコロが、本当に五分の一の確率で「一」が出るものだったのかということは、「わたし」による一回の経験では検証しようがない。過去に何度も振られたデータを示されるとか、あるいは事後的に何度も振ってみるという検証がなければ、分からない。とはいえ、そのような検証がなされたとしても、既に目が出てしまった「わたし」の利害にとっては、あまり意味がないとも言える。でも、既に「わたし」が望み通りの結果を得て幸せに暮らしていたとしても、十年にも及ぶ検証の結果(つまり結果が出てから十年以上も過ぎた後になって)、実は確率が十分の一だったと知らされれば、騙されたという怒りの感情は湧いてくるだろう。
(とはいえ、十年前の段階では誰もが五分の一だと思っていて、データもそれを示していて、実は十分の一だったとは最新のデータをみるまで誰も知らなかったとしたら、騙したのは「誰」なのか。あるいは、五分の一だと思い込み、経験的に、それによって成功したと思っていた「わたし」が、他の何人かの人にもそれを勧めたとしたら、「わたし」も他の人を騙したことになるのか。)
このように、個であり一回である「わたし」にとって、「確率」というものは何とももやもやした、捉え難いものだ。「神はサイコロを振らない」と言いたい気持ちがよく分かる。しかしそれは、むしろ「わたし」こそがあふやであるからで(あるいは、あやふやであることが「わたし」の可能性であるからで)、「わたし」という視点を離れれば「個別」より「確率」の方がずっと実在性が高いとも言える。
●有名な、光子の二重スリットの実験において、ある一つの光子がスクリーンのどの位置に到達するのかは完全にランダムで、それを予測することは出来ないという。しかしそれを何度も何度も繰り返せば、結果として波動方程式によって予測される通りの縞模様ができるという。この時、一回ごとの光子の振る舞いはあやふやであるが、何度も繰り返された結果はゆるぎないもので、つまり、波動方程式によって示される後者の方こそが「確実な実在」と言えて、あやふやでとらえどころのない一回ごとの(とりあえずは「これ」と指さすことの出来る)光子は、そのきまぐれな影のようなものでしかないという感覚が得られる。しかし、波動方程式によって示されるような実在は一体「何処にある」のかと言えば、この世界のなかの「ここ」と指させるような場所にはどこにもないことになるだろう。
あるいは、もう少しマクロな視点からみると、自然界に存在するもののほとんどが、べき乗則にのっとった度数分布をとるという。お金持ちと貧乏人の数の分布から、人がもつ性交渉の相手の人数の分布、ビンが割れた時の欠片の大きさの分布、銀河のなかの質量の分布まで、決してランダムな分布をみせることはなく、どれもほぼべき乗則にのっとった分布になるという。
これは例えば、ある一人の赤ちゃんを特定して、その子が将来お金持ちになるか貧乏になるかは分からない(どちらに対しても可能性は開かれている)けど、一万人の赤ちゃんがいるとすると、そのうちの何人がお金持ちになり、何人が貧乏人になるのかは既にほぼ決まってしまっている(のかもしれない)、というようなことで、それは、ランダムな分布にも、正規分布にも、平等にもならない、ということになる(とはいえ、これは要するにグラフの形の話なので、例えば総生産量を上げるとか、底辺を底上げするとか、再分配の方法を考える、というようなことは可能なはずだが)。
●もし仮に、「感情」が「確率」に大きな揺らぎをもたらすということがあるのだとすれば(しかしその時の「感情」というものが一体何を指すのかがそもそもよく分からないのだが)、それはスプーンのような「物質」に干渉するのではなく、このような「波動方程式」や「べき乗則」といった、「ここ」にあるとは指させないが、あるデータの処理を施すことによってはじめて見えてくるような種類の、しかしある確実性をもって「実在する(と言えるかもしれない)」もの(ここでは「量子」によって代表されている)に対して干渉するのかもしれない、というところで、それがなんとも怪しくて、そして面白いのだと思う。
ただ一方で、「精神」とか「感情」とか「意思」いう言葉を、何の疑問もなく「実在するもの」のように使っているという時点で、あまり期待できない感じなのかもしれないという気もするのだけど。