●すべての「わたし」が、自分のことを「わたし」と呼び、「わたし」として世界を経験する。ここでわたしとは「わたしという形式」のことだ。例えば、歯が痛い時、歯の痛みこそがわたしであり、わたしと痛みは切り離せないとも言えるが、しかし、「わたしは歯が痛い」と言えるのだから、そこで歯の痛みは対象化されてもいる。痛みは、わたしであると同時にわたしではない。実際、歯痛のなかにいるわたしも、歯痛の治まったわたしを想定することができるし、歯医者で治療をしてもらって歯痛が治まっても、わたしはわたしでありつづける。
では、逃れようもない病気の苦痛の場合はどうなのか。わたしがこの身体として生きている限りこの苦痛と共にいなければならない、ということもあるだろう。あるいはもっと単純に、わたしとはわたしの身体のことだ、と。しかしその場合も、思考実験としてならば、わたしの左腕を対象化して切り離し、義手にかえ、右足を義足にかえ、脳にコンピュータをつないで記憶とその検索とを介助してもらうようになり…、といった具合に、すこしずつ「わたし」を構成する部分を対象化して、切り離し、別のものにとりかえてゆく、と、考えることはできるだろう。そうするとそのうち、今のわたしを構成しているものがまったくなくなってしまうところに行き着く。部品1、2、3で出来ている今のわたしが、2、3、4となり、3、4、5となって、4、5、6にまでゆくと、最初のわたしとは完全に別物になるのだけど、しかしこの変化は連続しているのだから、その間ずっと「わたし」も連続している。
「わたし」と呼ばれる何かから、わたしを構成するものすべてを対象化し、切り離すことが、原理的には可能だ。だから「わたし(という形式)」は、わたしを構成する要素すべてとは別の場所にある。
「わたし」はノードであり、そこから複数のリンクが外に向かって伸びている点であるとする。そのリンクは常に、新たに繋がったり、途切れたりして変化している。点から1、2、3へと伸びていたリンクがすべて切断され、それらが4、5、6へと向かうリンクに更新されたとする。それが一挙に起これば、ある「わたし」は死に、新たな別の「わたし」があらわれることになる。しかし、切断と更新とがリンクの一本ずつ行われれば、その三本の線が交わっている点はずっとありつづけるのだから、中味が総入れ替えされても、「わたし」は持続し、ずっとそこにありつづけている。
(追記・しかしすべての接続が断ち切られれば、そこには何も−−点さえも−−なくなる。)
例えばわたしが、カニのように十本の脚をもち、それぞれの脚の先にカメラを搭載して、ことなる十の視野を同時に処理できるようになって、金属で出来た身体は触覚を失い、呼吸も必要なくなって、そのかわり大気中の成分を分析し得るセンサーを体表に張り付けて、地球ではなく火星に住んでいるとすると、今のわたしとは、感覚も欲望も思考も感情もまったく別のメカニズムをもち別のクオリアを構成しているだろうし、記憶さえ保持できていないかもしれないが、それでもそれがこの「わたし」から途切れなくつづく変化の先にいるとすれば、死んではいないのだから、それは「わたし」であろう。
このような状況を、例えばグレッグ・イーガンは繰り返し書く。そしてそれは往々にしてアイデンティティの主題だと言われる。しかしそれはアイデンティティの問題ではなくて独我論の問題なのではないかと思う。つまり、「アイデンティティ/メタモルフォーゼ」あるいは「輪廻」という問題系ではなく、わたしという「形式」の問題。
●だが、このような「わたし」とは、言語の効果にすぎないのだろうか。だとすれば、動物はどうなのだろう。動物は、「わたし」以外の形式をもっているのだろうか。もっているとしたら、それを「わたし」が知り、経験することができるのか。