●『緑ノ鳥』(大鋸一正)を読んだ。すごく面白かったのだけど、少し物足りない感じもした。たぶんそれは、この小説によって開かれた空間(あるいは、問われた問い)の大きさに対して、書かれていることの分量がこれでは足りないのではないか、という感じだと思う。単純に長さの問題というか、ざっくりしたいい加減な印象の話でしかないけど、少なくともこの三倍くらいの「量」が必要なのではないか、と。もっと長い小説の第一部だけを読んだ感じ。
これで終わってしまうと、「器用に仕上げられたふわふわした小説」みたいに読まれてしまっても仕方ない感じもあるけど、このままの感じで三倍くらいの分量があれば、軸がない感じとか、とらえどころがないとか、ふわふわしているとか、そういう弱点とも取られかねないとろが、すべて強みに替わるんじゃないかという気がした。明確に図式として示せるわけでもなく、これと指させる分かり易い答えが期待されるわけでもない種類の「問い」が問われる場合、執拗に、多方面からなされる問いそのものの展開と検証の積み重ねこそが、その問い(問いによって開かれる空間=小説)の説得力となると思うので、様々な形での「問いかけ」の記述の積み重ね――要するに細部の積み重ね――が、一定以上の分量、必要となるのではないか、と感じた。
●この小説の面白いところは何より、前述した「この小説によって開かれた空間の大きさ」で、とはいっても、三十歳くらいの特に冴えたところのない主人公の身の回りのちまちました出来事が書かれているだけとも言えるこの小説が、何故そんなに「大きい」と感じられるのだろうか。それはきっと、小説という器(メディウム)のなかに、どんなことをどんな風に詰めることが出来るのかという時の、詰め込もうとする物の内容というよりも、詰め込み並べるための地となる「空間」の方に、大きさや自由度を感じるということだ(これは「形式」というのともちょっと違って、形式を可能にするものとしての空間、という感じ)。それはおそらく、小説という器(そのディスクール)がなければ、繋ぎ合わせたり、関係づけたり出来ないような物や要素同士を、繋ぎ合わせることを可能にする(ように感じられる)懐の深い空間がそこに広がっている(ように感じられる)、ということだと思う。だからそれは、小説というものの器の大きさを感じさせる小説、ということだ。だから、そこで実際に「問われているもの」そのものの大きさというより、問いを可能にする「構え」が大きいということなのだと思う。
●ただ、そのような開かれた構えの大きさが充分には活用されずに、終盤に向けてややしぼんだ感じになっているところもあって、それが物足りない感じとなるのかもしれない。
●ここには、可能性が放置されたままあるという感じがする。これは2000年に発表された小説で、作者の大鋸一正は、これ以降長い小説を発表していない(最近では、短い小説が一年に一度くらい「文藝」に載っている)。