●銀座、なびす画廊で、杉浦大和展、阿佐ヶ谷、VISUALABで、只石博紀『季節の記憶(仮)』の上映を観る。
●住んでいるところが都心から遠いと、都心に出るとその時点でもうけっこういい時間になっていて、見たいところを少ししかまわれなくて、また改めて出かけなくてはと思いながら、また長い道のりを帰ることになる。
●『季節の記憶(仮)』はそれぞれ三十分の、夏・秋・冬・春、四篇で出来ている映画で、基本、一篇が三十分のワンカットで、出演しているパフォーマーが即興的に演技をしながら、一台のカメラをパスするようにして、互いを撮り合うことで成立しているのだという(すべてのパフォーマーに、カメラの動きや位置に介入する権利がある)。だがこの時、パフォーマー=撮影者はファインダーを覗くことは禁じられているようで、ただ、何かが行われている場所にカメラを運んで行って、この辺だったら写るだろうという適当な位置にカメラをどかっと置いておく、という感じで撮影されている(三脚無し)。
(下のリンクは予告編だけど、これは作品の面白さをあまり反映していないように思う。これを観るとむしろ――映画に詳しい人ほど――誤解してしまうような気もする。)
https://www.youtube.com/watch?v=-BizT3g5Xx0
で、この映画の最初の夏篇が、「こんなことが本当に出来てしまうものなのか!」というくらい素晴らしかった。奇跡のように素晴らしくて、『にほんかいいもうとといぬ』を観て以来の衝撃。
(以下は、『にほんかいいもうとといぬ』を観た時の感想。
http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20090121
http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20090122)
ただ、残りの三篇は、最初にあまりに上手くいきすぎてしまったことに縛られ過ぎているとも言えるし、最初に上手くいったことが充分に掴み切れていないとも言える感じで、ちょっと苦しい感じの試行錯誤がつづくように、ぼくには思われた。決してつまらないということではないのだけど、ちょっと「苦しい」感じ。この(夏篇のあまりに自由な解放感に比べて)「苦しい」感じについて考えてみたい。
最初にまったく手さぐりで行われる行為とは違って、一定の成果が出てしまった後に繰り返される行為だと、どうしてもその成果からのフィードバックを無意識のうちに受けてしまって、ある目的(既にある形)から掴まれ、拘束される感じにもなる。
最初の夏篇では、それぞれバラバラに進行している各出演者たちの時間の間を、カメラが絶妙なパスまわしで移動している感じがするけど、その後になると、カメラのまわりに出演者たちが集まってゆくような感じになっている気がした。なんというか、複数の流れの間をカメラがパスされて動いてゆくのではなく、バラバラであるはずの人物たちの流れが、カメラによって(カメラが一つであることによって)統合された一つの流れになってしまっている、という感じだろうか。カメラの存在によって人物の動きが制約されてしまっていて、それがけっきょくカメラの動きも制限して、ちょっと「苦しく」感じられる。上手いサッカーは、特定の選手の意思や技によってではなく、あたかもボール自身が意思をもつかのように動くけど、下手なサッカーは、ボールのまわりに選手が集まってしまうように見える、みたいな違い。
最後の春篇は、それをなんとか散らそうとしている努力がみられるけど、意識的に散らそうとするその「意図」がチラチラ見えてしまって、ノーファインダーであることの意味があまりなくなっている気がした。
(例えば、ヨガをしている女性の顔にカメラが寄って行ったり、その背中にカメラが置かれたりするのは、それをオペレートする「誰か(人)」の意図や関心が明らかに反映されていて――それが監督の意図ではないとしても――それならば、ファインダーを覗いて「意識的に変わった構図を探している」ことと基本的には変わらないことになってしまうのではないか、と思ってしまった。あるいは、バスケットボールをしている場面でも、明らかにバスケットボールをしている人たちを撮ろうという意図―関心があって、フレームが厳密ではないとしても、その意図に沿うようにカメラが操られている。それは、夏篇で、例えばジョン・レノンの話をしているカップルの脇に、カメラが無造作にガツッと置かれる感じとは明らかに違っている。この場面では、カメラは二人を撮ろうとはしていなくて、そこに置かれたカメラが勝手に二人の音声を拾っているという感じで、カメラが物として、どこか別の場所から運ばれてきてそこに「置かれた」というところまでが意図された行為で、そこに置かれたカメラがたまたま何かを写してしまっている、という形になっていると思う。夏篇では、意図されていないからこそ――カメラがカメラとして扱われていない感じだからこそ――カメラと対象との位置関係や距離感が、複雑に、かつ予期できない形で唐突に変化して――いきなりフレームに赤ちゃんの腕がぐっと入ってくる、とか――その運動感が素晴らしいのだけど、春編では、中途半端に意図が入っているから――ファインダーを覗いてはいないとしてもカメラはカメラとして扱われている感じだから――位置や距離の変化がちょっと単調になっている気がした。意図を入れることが悪いというのではなく、意図を入れるならもっと徹底して入れていかないと、「ゆるく意図が見える」感じになってしまうのではないか、と。)
(夏篇のパフォーマー=撮影者たちは、たんに「カメラを運んでいる(持ち上げ、歩き、置く、そして別の人がまた、持ち上げ、歩き、置く)」という感じだけど、それ以降は、たとえファインダーを見ていないとしても、「カメラで撮っている」という意識になっているように思われた。おそらく、このちょっとした意識の違いは大きくて、そこに視点の人称性の気配が生まれてしまうのではないか。)
夏篇では、誰の視点でもない、(特定の誰かの視点でもなく、客観的な視点でもなく)人物たちのバラバラな動きと偶然によってはじめて生まれた「ネットワークの視点」としか言いようのないものが奇跡のように成立していたと思うのだけど、春篇では、その都度の「誰かの視点(誰かの意図)」が次々に、単線的に受け渡されるという感じで、その筋道もある程度決まっているように感じられた(出演者の誰でもが、適宜、カメラに自由に介入できる――偶発的なフォーメーションに対して開かれている――という感じではなくなっている感じがした)。
確かに春編は、撮られている情景自体はとても素晴らしい幸福感に満ちているのだが、でも、これならば、家族で撮る普通のホームムービーみたいに、あるいは仲の良い友人たちが一緒に出掛けた時に撮るように(あるいは「普通のフェイクドキュメンタリー」のように)、普通にフレームを覗きながら、互いにカメラに撮られていることを知っているという前提で、互いを撮り合っているという形にした方が、つまり中途半端に非人称的な視点にするのではなくて「誰かが意図をもって撮っている」ということをはっきり示した方がいいのではないか(というか、実質的に、それとそんなにかわらないものになっているのではないか)と感じてしまった。コンセプトとやっていることがややズレてきているという感じで、画面は良くても、そこがちょっと弱いように思われた。
なんか、否定的なことばかり書いてしまった感じだけど、決してつまらないわけではなく、夏篇があまりに素晴らしいから、それと比べるとどうしても「惜しいなあ」となってしまう感じなのだ。あるいは、夏篇が何故あんなに素晴らしいのかを、他と比較するという形で考えてしまう、というか。もしかすると、ぼくの方が、夏篇にあった様々な可能性のうちの「一つ」だけに過剰に引っ張られ(惹きつけられ)、それを基準に他も観てしまったから、こんな感想になったのかもしれない。冷静になってから観直せば、例えば春篇などは違って感じられるかもしれない。夏篇すげーっ、と興奮したところで体力が消耗してしまっていた可能性もある。
(夏篇によって掴まれた可能性をさらに展開してゆくために、ここに示された作品とは別の様々な「作戦」のバリエーションも考えられるのではないか、とも思った。そのように、別のやり方、別の可能性を積極的に考えたくなるという意味でも、刺激的な作品だと思う。)
(今日の日記では、夏篇の「素晴らしさ」についてはあまり書けていないので、それはまた改めて書きたい。)
●『季節の記憶(仮)』を観ていて、そういえば高い階の部屋に住んだことがないなあと思った。最も高くて実家の二階、アパートでは常に一階の部屋だ。アトリエ兼住居ということになると、サッシを外して大きい絵を出し入れするのに一階じゃないと不便だということもあるし、貧乏なのでボロい木造アパートにしか住めず、それだと高くても二階がせいぜいだということになる。サッシを開き、ベランダに出ると遠くまでの景色が開ける、高いところには蚊もいないので、夕涼みしつつビール、みたいな生活にはきっと一生無縁だ。