BankArt Studio NYKの「かたちの発語」展へ。二回目。今日ははじめから、『回想のヴィトゲンシュタイン』(岡崎乾二郎)をがっつり観る、という目的を決めて行った。三回観た。
ここのところずっと西川アサキさんの本を読んでいたせいもあるかもしれないけど、心身問題に関する映画であるように感じられた。
オズの魔法使い』では、脳のないカカシ、心のないブリキの木こり、臆病なライオン、が、知性、心、勇気を授けてくれるという大魔法使い「オズ」の元を訪ねるために冒険をするのだが、しかし魔法使いなどインチキで、そんなものは実在しなかった。でも、実は彼らは、冒険の過程を通じて既に、知性、心、勇気を獲得していた、ということになっている。つまりここでは「心(知性、勇気)」が「何」であり、「どこ」にあるのか分からないままだ。もし魔法使いが実在して、心の形象化であるような「炎のようなもの」を掌の上に浮かべ、それをブリキの木こりの胸の辺りに入れ込んでやり、すると、さあ、木こりさんにも心が生まれました、というのであれば、「それ」こそが実体(あるいはイメージ)としての「心」であると指させるし、「心」が「そこ」にある、と言える。でもこの物語では、「それ」と指させるような「心」はどこにもなくて、いわば冒険の過程全体に遍在していると言える。しかし、その冒険のどこを探しても、「心」のようなものはみつからない。要するに、心がどこにあり、何であるのか、分からない。というか、「この世界」の内部に「心」の存在できる場所はない。
次の引用は、『魂のレイヤー』で「心身問題」を説明する時に引用されたライプニッツモナドジー」の一部分。
≪仮に今一つ機械があってそれが考えたり感じたり表象を持ったりするような仕組みになっているとすれば、それがそのままつり合いを保ちながら大きくなって、そこへ人が丁度水車小屋に入るように入れるようになったと考えることもできる。さてそう仮定しておいてその中へ入って見るとすれば種々の部分が互いに押し動かしているところは見えるであろうが、表象を説明するだけのものはどうしても見当たるまい。≫
言葉と意味、かたちと魂、色と感覚、建築とそれによって構築され持続させられる何か、それらはつまり、体と心という関係にあると言える。体(脳)と心の間には、あきらかな相関関係があるようにみえるけど、だかそこの因果関係が正確にどうなっているのかは誰にも分からない。
この映画では、表象をもつ(かのように見える)機械である、(かぶりものの、アニメの)ヴィトゲンシュタインくん、(ナイロン人形の、アニメの)アトムくんというキャラクターの系と、彼らを動かしている仕組みであるはずの「水車小屋のメカニズム(力学系)」あるいはそのマテリアルを示すような系と、そして、彼らの内部(しかしそれはどこだか分からないどこかだろう)に生起するように見えるクオリアの断片(だがそれはクオリアそのものではなく、その表現形であるから、「クオリア」とその「表現形」の間にも、心身問題が成り立つ)という系との、三つの異なるものの流れが、分離しつつ絡み合うように繋ぎ合わされているように見える。
まるで、表象をもつ機械人形が、自らの表象を組み立てているはずの「水車小屋」の内部に迷い込んで彷徨っているような感じの、そんな映画のように思われた。「海は何故いつも海岸の近くにある?」というトートロジー的な問いは、自らの意識を成立させている機械のなかに入り込んでしまった機械人形の寄る辺なさと滑稽さと物悲しさを表現し、「すべてを録画する録画世界があったとしても、そこに録画そのものは存在しない」という「論理哲学論考」的な文言は、この世界(力学系・体・脳)の内部に、世界を観測する観測者(心)の存在する場所があり得ないという、世界そのものの「ひっくりかえり」を表現しているように思われた。