●最終日なのでもう一回観ておこうと思い、BankArt Studio NYKの「かたちの発語」を観に横浜まで行った。三回目。
●わからないということがわかるというのはとても重要なことなのだが、しかしそれはむつかしくて、人はしばしば、かんたんにわかったような気になってしまうのだから、わからないことを本当にわからないとわかるために、本気で全身を使ったシミュレーションを試みてみて、それによって、それでもわからないことがあるとわかる必要がある、ということを18日の日記に書いた。
(昨日、一昨日の日記でも触れた)「春の庭」(柴崎友香)という小説の底の方にも、このような意味での「わからない」という感覚についての表現があるように感じた。この小説を駆動している根本の欲望が西のものであるとして、しかし小説の主な視点が太郎にあるということは、その欲望が基本的に謎であるということだ。なぜ、西がそのような欲望をもつにいたったのかという経緯の説明は書かれているが、それは、西の欲望そのものの生々しさを表現するものではないし、それによってその欲望を自分の内部で再現できるようになるわけでもない。太郎は、その説明を受け入れはするが、共感はしない。そもそも太郎は、「春の庭」という写真集から、西が言うような≪愛する人とともに暮らすことは楽しそうだ≫という感覚を感じない。むしろそこに「何気なさ」を装う「わざとらしさ」を感じている(実際、写真集をつくった二人はその二年後に離婚している)。それに、小説に書かれた西という人物を追ってゆく限り、写真集が表現するナチュラルさが、装われたものであることを察知する嗅覚が彼女にないとも思えない(西は、怪しい行動をとる謎の人物ではあるが、たんなる不思議ちゃんキャラとして描かれているわけではない)。西には、その≪楽しそう≫な感じが偽のものであることは理解されているのではないかと、感じられる。おそらく重要なのは事の真偽とは別のところにあるのだ、ということは、西の視点によって語られることがらによって理解できる。
もし仮に、その≪楽しそうだ≫という感覚を共有するとしても、その感覚が、西の水色の家への執着、特に黄緑色の浴室への強い執着までを説明するわけではない。西がなぜ、水色の家のこだわるのかという理由(というか、経緯)は理解できるとしても、その強い執着そのものは、わかるようでいて、よくわからない。そして、太郎がもつであろう、この「よくわからない」という感じはおそく読者にも共有される。太郎は、西との関係において、自分はただ、「水色の家」へ近づきたいという彼女の欲望(目的)のための「手段」としてしかみられていないのではないかとも感じている。そういう意味でも、西は、得体のしれない、油断のならない存在であろう。
とはいえ、西は、たんに謎の、あやしい人物というわけではないし、コミュニケーションが困難な不思議ちゃんというわけでもない。実際、太郎は、彼女との付き合いのなかで、空き家に関する見方がかわり、空き家への関心をもつようになり、それへの嗅覚も鋭くなってゆくのだし、彼女の欲望を(理解はしないとしても)徐々に受け入れ、自分がそのために利用されることも受け入れるようになり、最後にはそれに協力することが「責務」であるとさえ思うようになる。だから、コミュニケーションが成立していないということではく、むしろ太郎は西に大きく影響を受けているとさえ言える。だがそれでも、彼女の欲望のあり様は不可解であり、腑に落ちるということにまではならいないし、実際に見ることの出来た(西を充分に高揚させた)「黄緑色の浴室」も、太郎にとっては≪軽い落胆を感じ≫るようなものでしかない。
西の執着や欲望から強い影響を受け、それを受け入れ、その実現に協力することを責務だとまで感じながらも、それでもその欲望そのものについては最終的には共有できず、「わからない」ままなのだ。だからこの「わからない」は、まったく不可解で理解不能ということではない。経緯の説明としては理解できるし、欲望の強さや切実さも実感でき、それに協力しなければならないと思わせられるという程度には理解できるのだが、その欲望の感触を自分の頭のなかで正確にシミュレーションしようとすると、それに上手く像を結ばせることは難しい、という意味での「わからない」なのだ。この「わからない」という感触の不思議さこそが、作家がこだわっているものであり、そしてここで味わわれるべきものなのではないか。「わたし」と「あなた」の関係は相互作用的であり、相互浸透的ですらあると言えるのだが、この「わからない」があることによって、二つの「わたし」が混じり合ってしまうことが抑制される。そして、この小説の主な視点が西ではなく太郎であることの意味も、太郎が、この「わからない」という感じを出現させる装置としてあるということではないか。
●この小説は、終盤まで、主に太郎の視点で進行し、そこに西の視点が少し挿入されるという風になっている。ここで、西という人物は、太郎の視点と西の(自分の)視点の両方から見られ、語られる。しかし太郎は、自分自身の視点から語られるだけで、西の視点は太郎を語らない。太郎が見ている西は語られるが、西が見ている太郎は語られない。その理由は、太郎にとっての西が「わからない」存在であるという感触を残すためには、西が太郎をどうみているかが読者に開示されてはまずいからだろう(西から見た太郎が描かれてしまうと、読者が両者を等しく理解してしまうので、メタレベルに立ってしまって、「わからない」という感触が消えてしまう)。
終盤になって、太郎の姉が「わたし」という人称を伴って唐突に登場するのは、それでも、太郎が、自分以外の誰か外側の視点によって語られる必要があったということではないだろうか。つまりこの「わからない」を、太郎の主観ということだけで終わらせたくなかった、ということではないか。
ここで、姉の側から太郎が語られることによって、太郎に生じた「わからない」という感じが、太郎の主観というだけではなく、別の様々な関係性のなかでも生じ得ることだという風に開かれる感じになるように、配置し直される。ここで語られる姉と弟とのやり取りは、すばらしいと思った。
(もっと言えば、姉という人物は、今まで抑圧されていた「太郎に対する西の視線」が人物化して作品表層に現れたものだとも言え、それは逆から言えば、西という人物はそもそも、姉の分身であり、太郎の知らなかった姉の潜在性の「表現形」の一つが西という形で太郎の前にあらわれたものだ、とも言えるのではないか。だとすればこの小説は基本的に姉と弟の話であり、さらに、不在の父を想起させる「巳さん」を含めて、家族の話だとも言える。)
●しかしその上で、ラストの場面では太郎が姉の「わたし」に包摂されてしまうかのようなニュアンスが生じる。視点は意図的に混同され、太郎でも、西でも、姉でもない、第四の視点、視点(フレーム)そのものを相対化するような視点があらわれる(と、言ってもよいと、ぼくは思う)。しかしそれは、まず、太郎にとっての西の「わからなさ」が示され、次いで、姉と弟の視点の間にあるズレが示された上で、なされるということが重要だと思う。つまり、メタレベルに立って「わからない」が消失してしまうのではなく、「分からない」がそのまま残ったまま、その上で、あらゆる視点(フレーム)が相対化される。