●これ面白そう。「エウレカ・プロジェクト」。内部観測関係。
http://www.eureka-project.jp/
●『安堂ロイド』をDVDで六話まで観た。以下は、あくまで「六話まで」という限定された視点によってもたらされた感想。
逆向きの「シュタインズゲート」+シンギュラリティ物という感じで、これを日曜夜九時からのテレビドラマでやってしまうのはかなりの冒険なのではないかと思った。さすがにテレビドラマなので、シンギュラリティに特に興味がないとしても、普通に、お姫様と姫を守る騎士の話(ケビン・コスナーの「ボディガード」的な)として見ることも出来るようにはつくってあるし、ネタの一個一個はけっこうパクリが多いというか、どこかでみたようなものがほとんどで、アニメなどを見慣れている人にはヌルい感じでさえあるかもしれないのだけど(要するに、物語の基本は「シュタインズゲート」を逆立ちさせたもので、そこに「ボディガード」みたいな要素を絡めて分かり易くして、新しめのネタとして「シンギュラリティ」風味のフリカケをまぶした、ということだと思う)、そうだとしても、それなりにハードなこのSF的な設定を、多くの視聴者はすんなり受け入れられたのだろうか。
観つづけていると、気になるところがいくつかある。例えば、アンドロイドである木村拓哉は、感情を感じることのできるプログラムをインストールされることによって「感情」をもつようになる。これは、例えば「オズの魔法使い」で言えば、大魔法使いが本当にいて、掌の上に「こころ」の実体化である炎のようなものを浮かべて、それをブリキの木こりの胸のあたりに入れてやると、ブリキ人形に心が宿りました、というのと同じになってしまう。「こころ」という実態があらかじめあるのならば、ブリキ人形の冒険の過程それ自体には意味がないということになる。それに、「こころ」が外から挿入されるのであれば、それは「こころ」一般のうちの一つで、それが、「ブリキの木こりのこころ」である意味(必然性)がない。「ブリキの木こり」と「彼のこころ」との関係がどうなっているのかがよく分からなくなる。
(この場合、「こころ」というのは内容をもたない器=形式のようなもので、つまり「こころOS」ということになるのだろう。)
安堂ロイド』の木村拓哉は旧型のアンドロイドだとされ、そこに蓄積された多重化した記憶(メモリ)によって、こころの萌芽のようなものが芽生えはじているという設定なっていた。そこで芽生えた「こころの萌芽」が、柴咲コウとの関係によって「こころ」にまで成長するという過程(ブリキの木こりの冒険のようなもの)があってはじめて「ラブストーリー(=二人称的な創発)」が成立するはずなのだが、そうではなく、まるで「こころ」という実態がどこかあるかのように、「プログラム」によっていきなり外側からもたらされてしまう。
つまりここで問題になっているのは、「こころ」というものの創発(その過程としての「物語」)ではなく、あくまで「効果」としての「(レディメイドの)感情」なのだと考えるべきだろう。それまで何の躊躇もなく相手を殺していたのに、感情がインストールされることでそこに「葛藤」が生まれ、そしてそれを乗り越えるために「決断」が生じる。感情は、葛藤と決断を生じさせる効果をもつ、と。いや、葛藤(複数の系の矛盾)と決断(その調整)は、感情を伴わない通常の計算でも生じているだろうから、ここでは、その過程が「感情的な表現形」と「感情的アルゴリズム」を得たに過ぎない、と言うべきだろうか。とはいえ、「決断」には、計算には還元されない何かしらの飛躍が含まれているというニュアンスであろう。「こころ」は、「葛藤」と「決断」へと縮減される。要するに「ドラマ」が「葛藤」から「決断」への移行に還元されるのだ、と。
木村拓哉に蓄積された記憶が彼に要請するもの、そこから彼の内部で醸し出されたものとしての「こころ」とは異なり、既に外にあった既製品(レディメイドの器、表現形)が、彼の内部に持ち込まれたということになる。つまりそれは「彼のこころ」ではないとも言える。それは例えば、「オキシトシン」という脳内物質の分泌によって「愛」という「効果」がもたらされる、という説明と似ている。あるいは、ウイルスの侵入によってインフルエンザの症状が発現するというイメージに近い。このドラマでは、しんみりした場面になると唐突に(あきらかに「そぐわない」)竹内まりやの曲がかかって強引に盛り上げようとするのだけど、このドラマでの「(レディメイドの)感情」とはまさにこの「竹内まりやの曲」のことであり、それと同じように、何の必然性もなく(おそらく「大人の事情」で)天から降ってきたかのように外から来て「わたし」に貼り付けられる。「こころ」から存在論的な重みが消去され、効果に縮減され、だからここでは、オートポイエーシス的な問いも、ディック的な(「電気未」的な)問いも問われない。
そしてこの「こころの軽視」はおそらく意図的なものだ。木村拓哉は、放っておいても、いまにも「こころ」が生じそうであった。というか、あきらかに(外から見る限り、でしかないが)ほぼ「こころ」が生じていたとしか思えない状態だった。でも、そこに強引に、あたかも、自発的なこころの創発など(かけがえのない、固有の「こころ」や、リアルな「人間」との「恋愛」など)許してたまるかとでもいわんばかりに、外から暴力的にレディメイドのプログラムが注入される。これは、(レディメイドの感情プログラムしか持たない)本田翼が抱いた、自発的に「こころ」を生み出そうとしている同類への嫉妬なのか、あるいは「心身問題への敵意」なのか。
(このドラマで、木村拓哉はあらかじめ「料理の味の分かるプログラム」をインストールされていて、ご飯を「おいしい」と言って食べる。だがこの「おいしい」とは何なのか。おいしいというクオリアをもつということなのか、それとも、味覚成分を分析して「これは、おいしいと言っても良いもの、人間の日常的な言語ゲームにおいてそのような表現が適当であると言える成分配合である」という結果が出たことの表現なのか。そこは問われない。それはつまり、このドラマではクオリア問題は問わない、それはあらかじめ解決されているとみなす、という態度表明であろう。)
たとえ「風味づけ」程度のことではあっても、木村拓哉主演のテレビドラマに「シンギュラリティ」が取り上げられるということは、数年前くらいの段階では想像できないことだっただろう。シンギュラリティについての社会的なリアリティが増しているということだろう。しかしこのリアリティとは、もしかしたらマジで実現しちゃうかもしれないんじゃね、という技術的なリアリティの感じのことなのか、それとも、多くの人が、人間(人間による「政治」)のあまりの愚かさにうんざりしていて、無意識的な欲望として、いっそ(神の代替物である)強いAIに上から支配されてしまった方がずっとマシな世界になるのではないかと感じているということ(願望)なのだろうか。このドラマから感じられるのは後者であり、「こころ」というものを、感情的な「効果」にまで還元して、できる限り軽く(というか、操作的に)扱いたいという願望であるように思われた(「物語」のもつ「メッセージ」はそれとは逆なのだけど)。そしてその「感情」について、ぼく自身のなかにも共振するところが少なくなく存在することを、このドラマを見つつ感じる。
●「ガンダムUC」で、バナージの「動機」はお姫様だった。このドラマでも、天才物理学者、そしてアンドロイドの行動の動機は「お姫様」だ。まるで「お姫様」こそが「こころ」の起源であるかのようだ。そしてその「お姫様」は、降って湧いたように突然あらわれる。このような物語が、お姫様を動機にしないと駆動し、展開させられないという点が、これらの物語の最大の欠点であるように、ぼくには思われる。しかし逆に、このような物語を、一定のポピュラリティを維持しながら(つまり「現代芸術」にしてしまわない形で)、お姫様(あるいは、ファムファタル的ピッチ、でもアリなのだけど)抜きで展開させるにはどうすればいいのかを考えると、それがとても困難だと分かる。人々の(まあ、男性の、ということなのだろうけど)思いを集約しドライブさせるものとしての「お姫様」の存在は必須で、これを外すことは出来ないのだろうか。
逆に、何故「お姫様」ではダメなのか、お姫様がいたっていいじゃないか、という意見もあり得る。そういわれてみると、これはたんにぼく自身が「お姫様的存在をどうしても好きになれない」ということに過ぎなくて、結局ぼくの趣味や傾向性の問題でしかないのかもしれない。