●「E!」の松野×上浦対談をまた読んでいて、次に引用する部分の松野孝一郎の語り方そのものが、内部観測的なのではないかという感じをもった。
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《前置きを先にいうのは避けられないことでありながら、内心では、できるだけ避けたく思っていることです。なにかを言ったとき、それが完全無欠でありえないことを承知しているならば、あとになって判明する不都合に、予め保険をかけておくのが賢明だ、となります。まさしく、今私が口にしていることが、紛れもなく前置きです。そのことを承知した上で、前置きをつづけます。
誰かが内部観測という言葉を口にしたとします。もしそれがあまり聞き慣れた言葉でないならば、多くの方は、反発するはずです。心理的には、それは健全なことです。この警戒心がないとするならば、それこそバベルの塔になってしまいます。この背景で、誰かが何か新しい言葉遣いを始めたとき、その言いだしっぺは当然のことながら、その言葉遣いをほかのひとにも認めてもらいたいと、期待します。しかし、そうは、易々と問屋はおろしません。
新しい言葉遣いが、ある人に受け入れられた、となるのが鮮明になるのは、その人が当の言葉を術後として使い出したときです。これが起きるとするならば、それこそ稀有なできごとです。ある目新しい名詞を術後に配すると決した方は、その言葉遣いに前置きは最早不要、他所に保険を引き受けてもらう必要なし、と判断したはずです。その判断を担保するのは、当の判断を行った方の人格以外に見当たりません。》
ここでは、抽象化(記号接地)を行う内部観測者の具体的な像として、何かしらの判断を行うその人の「人格」というものが挙げられている。このことは、次の引用部分をみると、より分かり易い感じになる。
《在職中、職業柄、学生さんと接することが多々ありました。その間、学生さんにさまざまな実験をやってもらったとき、「このデータに人格をかけるか? イエス、ノーだけで答えてくれ」と聞くのが習いとなりました。もちろん、「イエス」ならば、爾後、私もそれに人格を賭ける、あとで不都合が判明したならば、それは私のせいであると言う、と付け加えてあります。》
これは分かり易い言い方ではあるけど、これだと、主体性とか責任という概念と内部観測との区別がよくわからなくなってしまうという側面もある。
ここで、先に引用した部分で言われている「人格」は主に、ある概念を術後として「受け入れる」側が問題とされており、後の引用にある「人格」は、ある概念(というか、ここではデータだけど)を、提出する側の問題が言われているのであって、受動と能動の違いがあるように見える。しかし、よく読んでみると、前者は、内部観測という概念を提出する人に対する、それを受け入れる人の人格が問題とされていて、後者には、データを提出する学生の側の、それを受け入れる教師に対する人格が言われている。だからここで「人格」とは、相手があってはじめて成立するようなものとして言われているように読める。
つまり、ここで言われる「人格」とは、提出する側と受け入れる側との間にある、境界面のようなものとして成立しているのであって、先の引用では、その境界面の受け入れる側に向いた「面」について、後の引用では提出する側に向いた「面」について言われていて、それはどちらも同じ一枚の「膜」の裏表であるようなイメージだと読むこともできるのではないか。
つまりここで「人格」とは、わたしやあなたに予め存在している何かというより、わたしとあなたの間に成立する「面(膜)」の、わたしの側を向いた面やあなたの側の面のことだと言い換えられるのではないだろうか。仮に、この面が成立しないとすれば、わたしにもあなたにも「人格」はどこにもないことになる。しかし、そうであるにもかかわらず、それはやはり「わたしの人格」として「わたし」によってひきうけられるのだ。こうなると非常に二人称性の強い考えとなって、自律的な主体性や責任とはかなり違ってくるように思う。
そして、あらかじめあるわけではないこの「面(膜)」が、実践的にはあかたもあらかじめあって、それが「持続しているかのように見做すこが出来てしまうという事実」が成立してしまっているというとき、それを成立させている何か(つまり、帰納的にしか成立しないものを、演繹的に成立しているかのように見做す何かしらの作用)こそが、内部観測と呼ばれているものなのではないだろうか、と思った。
ここでおそらく、帰納的なものが「予期」とされ、演繹的なものが「因果」とされて、その両者を内部観測(抽象化・記号接地)が統合している、ということになるのではないか。だけどこの統合は、結果として統合されていたという形で、事後的にしか証明できないものなので、当然、失敗するということが多々あり得るし、実際にいくらでも失敗している。とはいえ、多々の失敗が現にあるにもかかわらず、何故か、内部観測(そして「人格」)は成立しているように見える。そういうことをやっているのが「生命」だ、ということではないか。