清水高志さんが、ツイッタ―でリツイートしていた「問題」がちょっと面白かった(その「問題」は下に引用します)。とはいえ、こういう(数学的というよりも)「言葉で言いくるめる」系の問題は、図や式をかいてみると、どこに誤魔化しがあるのかがすぐ分かってしまう。つまり、この「問題」が表現していることがらとは、「言葉」というのは、実は、論理的に思考するための道具には向いていない、ということなのではないかと思った。
《三人の男がホテルに泊まることになりました。
ホテルの主人が一泊30ドルの部屋が空いていると言ったので三人は10ドルずつ払って一晩泊まりました。
次の朝、ホテルの主人は部屋代は本当は25ドルだったことに気が付いて、余計に請求してしまった分を返すようにと、ボーイに5ドル渡しました。
ところがこのボーイは、「5ドルでは三人で割り切れない」と考え、ちゃっかり2ドルを自分のふところに入れ、三人の客に1ドルずつ返しました。
さて、三人の男は結局部屋代を9ドルずつ出したことになり、計27ドル。
それにボーイがくすねた2ドルを足すと29ドル。
残りの1ドルはどこへ消えてしまったのでしょうか?》
一瞬、えっ、と確かに思う。でも、男たちが実際に支払った27ドルと比べるべき相手は、主人がはじめに請求した「30ドル」ではなく、実際の価格であるはずの「25ドル」であると気付けば、答えはすぐ出る。男たちが本来支払うべきだったのは25ドルであるにもかかわらず、ボーイが2ドル着服したから、彼らは27ドルも支払うことになった、ということになって、計算通りで、何の不思議もなくなる(男たちは結果として27ドル支払い、そこから主人が25ドル、ボーイが2ドル受け取った、3ドルは循環して元に戻った、という単純な出来事)。
だから、問題文の《それにボーイがくすねた2ドルを足すと》の「足す」という言葉が詐欺のポイント(展開がロジックから誤魔化しへと進む転換点)なのだった(本来なら、「ボーイがくすねた2ドルを引くとちょうど正規の価格の25ドルになる」となるはずだ)。つまりここで、27ドルに2ドルを足すことには何の意味もない。しかし、その足した数がたまたま29ドル(30ドルに1ドル足りない)になることで、何かそこに意味があるかのように勘違いしてしまう。
足りなくなるのがたった1ドルであるというのが、「いつの間にかどっかにいっちゃった感」を醸し出すのにちょうどよい(もし、10ドルも足りなければあからさまにインチキだと分かるけど、1ドルくらいだと、「あれっ」という絶妙な不思議感が漂って、不思議に対する魅惑がロジックを追うことに勝ってしまう)。
それに、事前に仕込まれた「5ドルは三人では割り切れない」という細部も、フックとして効いている(割り切れないという言葉は、どこか謎の気配があるから、ここで軽く不条理の感触の「馴らし」が行われる)。さらに言えば、人は、情報の出てくる「順番」(場面の時間的発展)に強く引っ張られるから、無意識のうちに、最初に示された「30ドル」がこの問題の基準点(地)であるかのように思ってしまう(情報を出す順番など、実はいくらでも操作できるのに)。そして、単純な問題をさも複雑であるかのように語るために意図的に迂回する語り口。これは確かにとてもよくできたトリックだと思う。つまり「言葉」は、ロジックよりもこのような雰囲気を強く表現し、雰囲気によって人を説得する(言いくるめる)ことに長けている。
確かに、この程度のトリックならば、すこし立ち止って(紙に図を描いたりして)考えれば誰でもすぐその誤魔化しに気付くだろう。しかし、日常的なレベルで、「話し言葉を聞く」という場面の流れ(時間的展開)のなかいると、この種の詐術を使われた場合、その場でパッと誤魔化しに気付くのは相当難しいのではないだろうか。おそらく、ぼくだったらスルーして納得してしまうだろう。この「問題」が表現しているのは、ロジックとは別の系列にある、人が納得を作り上げる物語の「経路(事柄の積み上げ方)」の問題であり、「実感」の構築の問題だ。つまりこれは数学の問題ではなく、物語の問題なのだと思う。
そして、このようなトリックによるミスティフィケーションは、コミュニケーションの場でとても大きな力(説得力)をもつ。おそらく、ある種のカリスマは、こういうトリックを(無意識のうちに)とても巧みに使う。あるいは、ある種の「物語作品」は、こういうトリックによって作品のなかに謎による魅惑の感触を響き渡らせる。この「問題(詐術)」は、魅力的な物語の一つのひな形でもあると思う。
●上に書いたこととは関係ないですが、以下は(昨日のつづきで)、『フィクションの音域 現代小説の考察』の「もくじ」です。
http://bccks.jp/bcck/123684/info


まえがき


Ⅰ 書評
(1) 二一世紀の前衛
死ぬわたしと、それとは別のわたし  山下澄人『砂漠ダンス』
脳内次元数拡張小説  山下澄人『ギッちょん』
罠と監視と恩寵  磯崎憲一郎『往古来今』
空隙という糸=ネットワーク  保坂和志カフカ式練習帳』
死の恐怖による専制に抗する  保坂和志『未明の闘争』
(2) 七十年代生まれの作家がひらく新たな地平
「わたし」たち   柴崎友香『星よりひそかに』
「そこ」にいる「わたし」   柴崎友香『わたしがいなかった街で』
分身と宇宙人と精霊  柴崎友香『星のしるし』
探る手の〈動き〉が掴み取る〈形〉  岡田利規『わたしたちに許された特別な時間の終わり』
リアルフィクションの希望  岡田利規『エンジョイ・アワー・フリータイム』
世界の中に謎はないが、世界そのものが謎である   青木淳悟『私のいない高校』
子供たちの生まれる場所  福永信『一一一一一』
(3) 女性作家の位相
関係のなかで関係が考える  津村記久子『とにかくうちに帰ります』
媒介が思考し、関係が対話する  津村記久子『ウエストウイング』
三人の姉と三人の女+一  青山七恵『わたしの彼氏』
不撓不屈の問いかけ  山崎ナオコーラ『この世は二人組ではできあがらない』
親しいもの、懐かしいもの、と、痛さ   大道珠貴『傷口にはウオッカ
(4) 複数の前線
瓦解する世界のなかの子供   古井由吉『蜩の声』
関係(認識)と孤独(感触)  橋本治『夜』
「見えるもの」の過剰と不実  横尾忠則ポルト・リガトの館』
反転と隣接、隠蔽と欠落  絲山秋子『不愉快な本の続編』
どこにも着地しないという緊張-リアリティ  奥泉光『神器 軍艦「橿原」殺人事件』


Ⅱ 講演
こちら側と向こう側との境  大江健三郎『水死』


Ⅲ 論考
書かれたことと書かせたもの  青木淳悟・論
     「四十日と四十夜のメルへン」から「ふるさと以外のことは知らない」まで


付  作家案内