●人間を超えるコンピュータ(というか、AGIのことです・追記)が出来たとすると、人間はコンピュータによって未来を先取りされることになる。コンピュータによって先取り的に「未来」が与えられてしまう。考えるより早く答えが与えられてしまうし、行動するより早く結果が知らされてしまう(あとは台本通りにことが進められるだけだ)、という意味で。
勿論、コンピュータは万能でも絶対でもなく、わからないことはわからないだろうし、間違うことも多々あるだろう。そもそも原理的に「解けない問題」は解きようがない。しかし確実に言えるのは、人間が考えるよりはよい答えをだし、人間が考えるよりもずっと少ない間違いしか犯さないだろうということだ。さらに決定的なのは、人間が考えるより圧倒的に速く答えを出す。故に人間は「考える」こと(の「意味」)を奪われ、コンピュータの答えを遅れて確認することくらいしかできなくなる。「現在」が、ライブではなく「答え合わせ」の時間になる。
●小学生の時に観た「ルパン三世」に、すごいコンピュータが出てきた回があった(資料を調べず記憶によって書くので事実と異なるかもしれないが、ここでは記憶を優先する)。ルパンの行動はことごとくコンピュータに予測され、先回りされる。小学生のぼくは、こんなすごい敵にどうやったらルパンが勝てるのだろうかと途方に暮れるような気持ちで観ていた。そしてそのことを今でも覚えているのは、ラストにまったく納得できなかったからだ。ルパンは見事にコンピュータの裏をかくことに成功するのだが、その理由が「気まぐれ」であるという。「さすがのコンピュータでもおいらの気まぐれまでは予測できないだろうさ」、と。
いやまて、そんな簡単なことであるはずがないじゃないか、と思った。今まで、あんなに完璧に行動を読まれていたのに、「気まぐれ」って何だよ、と。ルパンが頻繁に「気まぐれ」を起こす人だというくらい、まっさきに予測できるはずだ。そもそも、意図的に「気まぐれ」を起こすのならば、そんなの「気まぐれ」とは言えないではないか、と。
だから「気まぐれ」ではなく、たんに「まぐれ」じゃないのか、と思った。コンピュータだって完璧ではないはずだから、何パーセントかの確率で間違うことはあるだろう。で、その何パーセントかの間違いがその時にたまたま起きたということなのではないか。だから、ルパンが勝ったのではなく、コンピュータが間違っただけではないか。だとすれば、ルパンがどう考え、どう振る舞うのかということは状況には何の影響もなくて(気まぐれを起こそうが、起こすまいが、どちらでも同じ)、ただ、コンピュータが間違うか、間違わないかだけが問題で、だとすればルパンが勝ったなどとは到底言えず、どちらに転ぶのもコンピュータしだいなのだから、完璧な敗北以外の何ものでもないんじゃないか、と。
作品が与えてくれた「回答」に納得できなかったので(コンピュータの圧勝を転覆させ得る契機はまったく与えられていない)、観ている間の「途方に暮れる」ような感覚はその時から今までずっと持続していると言える。
(もう一つひっかかっているのは、「気まぐれ」を「意図的に起こす」というのは一体どういうことなのか、ということだが、こちらについても、今に至るまで納得のゆく答えを見つけ出せていない。)
●とはいえここで、複数のエージェントを想定すれば局面はかわってくる。コンピュータAと同等のスペックをもつコンピュータBが別にあり、ルパンはこちらの方と繋がっていた、とすれば、コンピュータAの裏をかくことの出来る確率はぐっと上がるだろう。だがこの時、実質的にはコンピュータ対コンピュータの対決となって、ルパン(人間)対コンピュータというフレームは瓦解している。そもそもルパンの魅力は、仲間たちと三人(+不二子)だけですべてを処理するという自律性の高さにあるのだから、コンピュータBと繋がって勝つというのは解にならない。
(これによってでは人間=主体性は確保できないが、Aが勝つかBが勝つか分からないのだから「現在時」は確保可能かもしれない。)
●こんな話は多くの人にとっては浮世離れした絵空事なのだろうか。でも、我々はもう既に、考えるより早く答えが与えられるような環境に生きているのではないか。でも今ならまだ、予め与えられる答えよりも良いものを探求する余地が人間の側に残されているように思う(例えば、アマゾンのおすすめの精度はまだそんなに高くない)。あるいはそのような事態を「高度に発達した資本主義がどうした…」とか言って批判することも出来るかもしれない。しかし、予め与えられる答えが、もうそれ以上のものは望めないくらいに最適なものである(逆に言えばそれが限界でもある)確率が99%以上である、としたら、コンピュータがそのような精度の答えを瞬時に出すことが出来たなら、その後で人間は、それをなぞる以外に何をすればいいのか。