●例えば将棋。人間が誰も、将棋でコンピュータに勝てなくなると将棋は廃れてしまうのだろうか。でも、人間より早く走る機械はいくらでもあるのに、陸上競技が廃れる気配はない。ここには、前者は頭脳に関わり、後者は身体に関わるという違いがあるとは言える。これは、身体においては人間中心主義が成り立ち、人間でないものが人間に勝ってもあまり意味がないということだろうか。人間の身体とは人間の精神をもったものであり、機械と競争し得るたんなる悟性(計算)と精神(魂)は違うのだ、と。
とはいえ、陸上競技では、人間がひたすら機械に近づくことが要請されているようなニュアンスもある気がするから、ここは、格闘技のようなものをイメージした方がいいかもしれない。
例えば、格闘技的精神主義みたいなものがおもしろいのは、身体主義的なものがある種の精神主義として捉えられているところではないか。体の強い人(あるいは、鍛えた人)の精神主義は、その人自身の体の強さを基盤としているように思われる。あるいは、その人の技量の高さが、精神性の高さの表現として捉えられているのではないか。このような、身体的精神主義(根性主義)のようなものが、学校の体育教師(あるいは軍隊とか)みたいなレベルに降りてきてしまうと最悪だと思うのだけど、格闘家として実践の場に身をおいているような人が自身を律するものとして用いる場合は有効なのではないか。
だが、この身体的精神主義は、強い体をもって生まれてきた人にのみ有効な、特権的、あるいは差別的なものだとも言える。でも、この身体がバーチャル化されれば必ずしもそうではなくなる。例えば、バーチャル化された身体においても「痛み」はリアルであろう。神経系まで含めて脳と繋がれたバーチャル身体による格闘技をイメージする。「痛み」とはそもそも脳で構成されるものだから、はじめからバーチャルなもので、故に、バーチャルな身体での格闘による「痛み」も、リアルな「この身体」における「痛み」も同等であり違いはない(幻肢の痛みはリアルである、と同じ)。その時、バーチャルな空間でバーチャルな身体を鍛えるような、身体的精神主義みたいなものはあり得るのではないか。
(『ファイト・クラブ』的な? でも、ぼくは「痛い」の嫌いだから嫌だけど。)
いや、でも、バーチャル身体は、任意の、交換可能な身体なので「この身体」とは言えず、「この身体」でないものには「魂」は宿らない、という感じになるのだろうか。格闘技はあくまで、偶発的に与えられた(交換出来ない)「この身体」という限定において闘うというところに精神性を見出すのだろうか。
(生身の「この身体」とは別に、もう一つバーチャルな「この身体」をもつ、ということは考えられないか。複数の「この身体」をもつ、一つの「このわたし」。アバタ―? その時、「このわたしの精神」は一つなのか二つなのか。二つの精神と二つの身体をもつ、一つの「このわたし」という状態を想像できるだろうか。)
●格闘技において、身体や技量があくまで精神の表現としてあるのだとすれば、はじめから精神をもたない(あるいは、死を恐怖しない)「ロボット」と戦って勝てないとしても、別に屈辱ではないのだろうか。というか、ロボットと戦う必然性がない、のだろうか。
(いや、だとしたら、もしロボットが精神を持つようになったら、どうなるのだろうか。格闘家は、人間が、どんな偉大な格闘家でも鉄腕アトムには勝てないことを屈辱と感じるのだろうか。あるいはその時、人間に対するアトムの精神性の優位を、魂の優位を認めるのだろうか。)
身体の鍛錬があくまで精神(わたしの魂)の鍛錬であり、他者と対戦することも、自己の鍛錬としてそれが必要だから行うのであって(たとえ、負ければ死ぬ、としても)、他者と競争しているのではない、ということであれば、機械に勝てるかどうかなど別にどうでもいい、ということになるのか。
(ここで、シンギュラリティ問題と、このわたし問題≒クオリア問題が関連づけられるのではないか。)
(いやでも、格闘技はやはり、「あいつに負けたくない」という種類の闘争心と不可分であるような気もする。)
●「このわたし」や「クオリア」はありつづけるとして、未知への探求が不可能になり、人工知能が常に先回りして「答え」を提示してしまうような、創造性の意味がなくなったシンギュラリティ以降の世界において、「精神」というものが可能なのだろうか。いや、まったく「別の形」をした、新たな「精神」が生まれるのかもしれない。
未知とか探求とか挑戦とか未来とかとはまったく縁の切れた「精神」があるとしたら、それはどのようなものになるのか。例えば、クロソウスキーとかは、ちょっとそんな感じがするけど。
(その時、そこにあるのは「祈り」だけ?)
●格闘技について、全く何も知らないで書いてます。