●ノードとネットワーク、あるいは、ノードとエッジという考え方を、キャラクターとフレームという風に言い換えることは出来るだろうか。キャラクターがノードで、多重化したフレームがネットワーク。一つのノードが、多数のネットワークと繋がっているという事態を、一つのキャラクターが、多数のフレームに横断的に含まれているとイメージしてみる。
ここでキャラクターとは、同一性の徴としての固有名のようなもので、ほぼ中味はない。AはAであるという同一性の徴さえあれば、その中味がどんなに変化しても、AはAとして同一だ、というようなことがらをキャラクターと呼んでみる。内容を決めるのはキャラクター自身ではなく、キャラクターをとりかこむフレームであり、多重化したフレームの重なり方である、と。逆に言えば、キャラクターは、同一性の徴以外には積極的な中味をもたないことによって、多数のフレームを横断する力をもつ。
いや、これには無理があるか。キャラクターは、同一性の徴だけでなく、ある特定の色(あるいは「匂い」)をもつ。そうでなければキャラとは言えない。ただ、その色は、あくまで色であって、具体的に記述できるような中味ではない。色以外の中味は未確定として開かれている。その色の底から、具体的にどんなものが出てくるのかを、事前に規定することはできない、と考えればどうか。
キャラクターは色をもつことで、我々の感覚に対する「引き」を得る。あるいは、我々の心のなかの、ある位置を占める。キャラ自身の視点でみれば、世界に対してある「構え」をもつ。しかしそれは色であり、構えであり、具体的内容ではないから、さまざまなフレームに対して開かれ、横断的な力をもち、そのフレームの効果よって、いくらでも異なる意味を、新たな意味を発掘可能である。
キャラクターとは、言ってみれば同一性をもった底の見えない「ある深さ」である。しかしその底とは、結局、多重フレームの効果のことである。それはつまり、あるノードとは深さであり、しかしその底はネットワークによって別の(複数の)ノードに繋がっているに過ぎない、ということと同義だ。
キャラクターの具体的な意味(中味)とは、フレームの多重な重なりのことであり、それは要するに、複数のフレームの相互作用によって創出される。あるノードは、ネットワークの効果によって生じる他のノードの相互作用を発現する場としてある。つまり、多数の他との相互作用の効果を、固有性(固有な深さ)として発現させる場(器)が、キャラクターということになる、と考えられるだろうか。
(例えば、あるキャラがAと名付けられ、像を与えられる。Aに、ある作品のなかで、ささやかな役割が与えられたとする。そして、たまたまその作品がヒットしたので、続編がつくられることになる。その続編において、Aに、今度は小さくない役割を与えられ、それによって、遡行的に最初の作品で与えられた役割が読み替えられることになる。その役割は、当初から設定されていたものではなく、あとから適当に付け加えられたものだとする。その時、キャラAは、自己の同一性によって最初の作品と続編という二つのフレームに横断的に存在し、そのフレームの多重化の効果によって自己の意味――中味――を書き換える。キャラAは、自身の同一性を保ちつつ、新たなフレームが重ねられることで、自らの「色」から大きく外れない限り、いくらでも意味――中味――の変容を受け入れられる。この、意味の変容を受け入れる能力を「深さ」とする。そしてこの「深さ」とは、AはAであるという同一性の徴をもつ効果だろう。つまり、同一性によって、未確定性に開かれる。)