●『基礎情報学のヴァイアビリティ』(西垣通/河島茂生/西川アサキ/大井奈美[編])を読んでいる(第6章まで読んだ)のだけど、これ、すごく面白い。西川さんが書いているので、西川さんのところだけ読めばいいやというくらいの感じで手にとったのだけど、どれもこれもとても面白い。
●以下は、第5章「情報的世界観と基礎情報学」(大黒岳彦)から引用、メモ。ルーマンは、「意味」は「情報」のメディアだと言った、と(ここでの「メディア」とは、「ニューメディア」という時の「メディア」であるというより、美術などで「メディウム」という時の「メディア」、つまり、物質の素材性のようなものだろう。)。
ルーマンは、既存の情報科学をベースにしたシステム理論では「意味」を扱うことができないという明確な自覚の上に立ち、自らのシステム理論に〈ヒューレー(素材)-モルフェー(かたち)〉図式を導入することで、「意味」と「情報」とを不可分な関係に置こうとした。》
《だが、その一方でルーマンの〈メディア-形式〉に基づく「情報-意味」関係と現象学の〈素材-かたち〉に基づく「情報-意味」との関係との間に生じている重大な相違が見逃されることがあってはならない。その相違とは、「情報」と「意味」との相対的位置の逆転である。》
現象学にあって「意味」は、下位にある「情報」がそこへと向かって〈統握〉される「目的」であった。そして「目的」であることによって「意味」は自己完結・自己同一的な超越的実在と化したのだった。ところがシステム論においては「意味」は、「情報」がそこから〈選択〉される〈素材〉と看做される。つまり現象学にあっては〈素材〉の位置を占めたのが「情報」だったのに対し、システム論ではその位置を「意味」が占めるのである。》
《システム論において「情報」は、現象学における「意味」へ向かっての〈統握〉の素材から、「意味」からの〈選択〉の結果へと、その身分を変ずる。》
ルーマン情報科学が切り拓いた“素材空間”“リソース空間”という思想を自らのシステム論に受け容れる。ただし、情報科学が主張するのとは違い、そこでの〈素材〉〈リソース〉をなすのは「情報」ではなく「意味」である。〈メディア-形式〉の構図に当て嵌めて言うなら、〈メディア〉の位置を占めるのは「情報」ではなく「意味」の方なのである。したがって、世界の基層を構成するのは断じて「情報」ではない。「情報」は〈素材空間〉をなす「意味」からの〈選択〉の結果として、自己言及的〈演算〉の生成物としてシステム内部で二次的に構成されるものである。》
《すなち、ルーマンは「情報」を「意味」と関連させつつ、「情報」を「意味」からの〈選択〉として、「意味」の自己言及的〈演算〉の成果として、「意味」の〈函数〉としてとらえ返していったのである。》
《こうしてルーマンは「意味」を「情報」の〈メディア〉として、「潜在態における情報」として捉えかえすことによって、情報科学の枠組みを堅持しながら「意味」の復権を果たし得た。》
●たまたま観たのだけど、タモリ倶楽部の「こけし」の回、意外と面白かった。こけしが東北にしかないものだとは知らなかった。