●なんとなく、『恋の渦』(大根仁)をDVDで観た。印象としては、話のつくりがすごくきちんとした映画だなあという感じ。特に、終盤になって、映画が発展モードから収束モードに移行して、お話を畳みはじめてからの展開がとても上手いと思った(サトミの妊娠をナオキが知るあたりから、話を畳みモードにもっていこうとしているように思う)。こういう群像劇では、話を発展させてやることは割とやり易いと思うのだけど、それをどう収めてゆくのかはけっこう難しいのだと思う。唐突に大きな事件が起きて「終わり」というパターンになりがち(「クーリンチェ少年殺人事件」ですら、殺人事件がなければお話を収束できなかったのではないか)。この映画はそれをしなくても綺麗に畳んでいる。
では、すばらしいのかと言えばその「話のつくりがきちんとしている」ところが嫌だなあと思ってしまった。要するにこの映画は、DQNな人たちを上から目線で観察して、利用して、ネタにして、操作しているだけではないかと感じてしまった。彼らは皆コマであり、それを動かす作り手の操作性ばかりを強く感じてしまった。DQNな人たちが、この映画を観て、ここに自分たちの物語が語られていると感じたり、登場人物の誰かに感情移入したりするのだろうか(そうではなく、不快に思うのではないか)、という疑問を感じてしまった。
しかし、そうは言っても、この映画における人物やエピソードの配置のバランスや仕掛けやそれを出してくる順番などは、とても優れたものだと思った。個々の細部やネタや内容は好きにはなれないが、作品としての「かたち」は考え抜かれたものだと思った。
●(以下、オチを含めた重大なネタバレがあります)この映画は基本的に、「身もふたもないエピソード(なんなんだこいつ最低じゃん)」から「ちょっとだけほっこりエピソード(とはいえ、根は悪い奴じゃないよな)」へつづき、それが「ほっこりを裏切るエピソード(ほっこりして損した、やっぱこいつ最低)」へと裏返るというパターンが、それぞれの人物(の関係)において繰り返される。この映画のすぐれたところは、「いい話」は即効で裏切られるところだろう。決して「いい話」の方には流されない。しかし、「いい話」がまったくないわけではない。このバランスがクールだ。様々な人物、様々な関係において、裏→表→裏という反転的展開があり、それが絡まり合う(ただ、タカシという人物だけは終始、裏表がない)。終盤になると「ほっこり」系のエピソードが増えてくるのだが、それが何重にも裏切られることで、きれいなオチに至る。
この話は基本的に四人の女性と五人の男性の関係(正確にはもう一人男性が出てくるのだが)によって紡がれる(下図参照)。

トモコ-コウジ、サトミ-ナオキがカップルである(コウジはナオキの兄)。コウジ-ユウタ-オサムの三人が遊び仲間であり、タカシは、ユウタと同郷の友人で同居しているが、コウジ・オサムと親しいわけではない。トモコ-カオリ-ユウコは職場の同僚だが、女性のなかでサトミだけが知り合いではない。後にユウコとオサムがカップルとなり、女性のなかで唯一フリーであるカオリが、ナオキ、タカシ、ユウタの間をふらふら移動する。
(カップルという関係のなかではカオリがフリーであり、女性たちの職場関係においてはサトミがフリーである。フリーであるこの二人の動きが、いろいろ効いてくる仕掛けで、カオリは関係性を複雑に展開させ、そしてサトミは「オチ」担当だ。)
●終盤以降にみられる主な「ほっこりエピソード」は次の四つだろう。「1.ナオキがサトミの妊娠に感激する」「2.トモコがコウジの呪縛から逃れる決意をする(別れる)」「3.オサムがユウコに泣いて謝る」「4.タカシが帰郷して寂しくなったユウタを、カオリがなぐさめる」これらの「いい話」は皆、それぞれのやり方で裏切られるのだが、特に重要なのは(1)と(2)であろう。
●この映画の登場人物たちには、古く幼稚な男尊女卑的価値観が共有されており、おおむね、男性は女性に対して過度に横暴に振る舞うし、それがある種の「自然」な状態として男女共に受け入れられている。しかし終盤、それが当然であるかのように横暴に振る舞う男性たちに対する女性たちの(意図せざる)逆襲(裏切り)が描かれることで、ある程度バランスがとれているとは言える。
●まず(2)について。トモコ-コウジのカップルは明らかにヤバい共依存の状態にあり、映画を観ているほとんど観客は、トモコがコウジと別れる決意をしたことを「良いことだ」、あるいは「当然だ」と思うだろう(その意味で「ほっこり」エピソードである)。しかしその一方で、直前までは「コウジとは絶対別れたくない」「浮気なんて絶対あり得ない」と言っていたトモコが、コウジとはまったくタイプの異なる堅実そうな男性(トモコの方から誘ったのだという)を連れてきて、コウジに対してひとかけらの未練も感じさせないサバサバした態度で別れを要求することに、観客はある言葉にならない感情をもつことになろう。
この場面は、まずは良い事であり、当然のことである(ほっこり)であると同時に、あまりに横暴すぎたコウジへの(単なる心がわりなので、意図せざる)逆襲であり、さらに観客の持つトモコというキャラへの思い込みに対する裏切りでもある。だがこの裏切り(意外性)は、えっ、と驚いた次の瞬間には、(ある、複雑な感情を押し殺しつつも)まあ、そういうもんだよね、という納得にかわってゆくだろう。
つまりこのエピソードは、表(ほっこり)であると同時に裏(裏切り)でもあり、話を畳んでゆこうとする収束モードの「いい話」でありながら、それだけにはとどまらずにキャラの新しい側面の発見という意味では発展モードでもある。話を収束に向かわせつつも、新たな発展の要素もあるという点で「置きにいっている」感じにはならないという、とても見事な作劇となっている。この映画の終盤は、話を収束させつつも、キャラのあらたな側面の発掘が行われることで、最後までテンションを下げないというつくりになっていると思う。
●そして(1)。ナオキは、普通にしていても自然に女性にモテる人物のようだし、この映画の登場人物のなかではおそらくとびぬけて頭が良い。だからこの映画のなかで最も優位な位置にいる人物であり、そのことによって傲慢である。コウジやオサムも、女性に対して横柄で横暴な態度をとるが、それは彼らの小心さや臆病さの裏返しでしかないことは誰の目にも明らかだ。しかしナオキの行動を導いているのは自信であり余裕であって、彼は世界や他者を見下している。故に彼は登場人物中最もエゴイスティックであるように見える。ナオキが、一方ですごくめんどくさい女性(サトミ)をとても大切に扱い、もう一方で好き放題にカオリとの浮気を繰り返すという二重性をもつことが出来るのは、世界や他者を思う通りに操作できる(「それ」と「これ」とをきちんと分けておくことが可能だ)という自信に裏打ちされているからだろう。
だからこそ、ナオキがサトミの妊娠の話を聞いて感激して涙を流す場面を観て、驚かされる。あの傲慢で自己中心的なナオキが、と。これがおそらくこの映画のなかで最も大きな出来事であり、最も大きな驚きで、「いい話」度の最も高い場面だろう。しかしこの場面は二重に裏切られる。まずはナオキによって、次いでサトミによって。
ナオキは、サトミの妊娠を知って感激し、二人が結婚することを決めたその同じベッドで、すぐ直後に、呼び出したカオリと平気で浮気をする。あの涙は何だったのか、と観客は思う。しかし、通常では信じ難いこの行為も、「それ」と「これ」とをはじめから完全に分離して考えているナオキという人物のなかでは整合性のある行為だと言える。「あの涙が本物だ」ということと「ここで浮気をする」ということは、ナオキのなかでは矛盾しない。この映画では、「いい話」がいい雰囲気のまま終わることはない。
サトミは、非常に面倒な女性として描かれている。内向的で他人とあまり打ち解けず、しかも、ナオキが自分を愛しているという実感を常に感じていられないと不安になる。サトミは唐突にそして頻繁に機嫌や具合を悪くして、ナオキはその度に、言いよどむサトミからその原因を忍耐強く聞きだし、彼女の不満や不安を取り除くための言葉を繰り出して丁寧に説得しなければならない(ナオキのサトミを大切にする態度は驚くべきものだが、しかし観客は一方でナオキの浮気を見ているので、態度が献身的であればある程、それが胡散臭く感じられもする)。そして(実際にしているのだから当然とも言えるが)サトミはいつもナオキの浮気を疑っていて不安そうである。
映画のはじめからずっと描かれるこのようなサトミの性質こそが、この映画最大の「(ミスリードを誘うものとしての)伏線」であり、それがラストで効いてくる。サトミは、トモコがコウジに依存しているのとは違った形ではあるがナオキに依存しているように見えるし、浮気の心配をするのは一方的に彼女の方であり(ナオキが浮気している場面を観客は実際に観ているし)、サトミ自身の浮気の可能性については観客はあまり考慮しない(ナオキがサトミの浮気を疑う場面も、ナオキが理不尽にキレているようにしか見えない)。つまり彼女が一途な女性であるかのような印象操作がずっとなされていた。実際に、浮気はしていないのだが……。
映画は、ユウタが呼んだデリヘル嬢がサトミだったというオチで幕を閉じる。深夜のテレアポのバイトをしているというのは嘘で実はデリヘル嬢をやっていた、と(このことが「観客」に対して最後までバレないのは、サトミが他の女性たちと仲良くないからだ)。嘘をついて相手を騙していたのはナオキだけではなく、サトミもナオキを騙していたのだ、と(しかもナオキは――ナオキだけでなく観客もまた――けっこうチョロく騙されていたことになる)。どっちもどっちだった、と。いや、サトミはナオキの浮気をなんとなく察しているが、ナオキはサトミがデリヘル嬢だとは夢にも思わないだろうから、むしろサトミの方が一枚上手だと言える(サトミがユウタに悪びれもせずにさらっと言う「このこと黙っててもらってもいいですか」という一言で、サトミがどういう人なのか全然分からなくなる)。この瞬間、ナオキは、世界や他者を操作し得る登場人物のなかでの最上位の位置から転げ落ちる。ナオキの象徴的な地位が失墜して他の人物たちと同列となったことで、映画はきれいに収束する。